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有機農業は先手必勝。これに尽きる。

農業の一番根本は、安心で安全な食べるものを作ること。

熊本県・山都町は、日本の有機農業における聖地ともいえる。
それは、47都道府県で、有機生産者が最も多い熊本県において、
なんとその内の7割もの生産者がひしめく町こそが、山都町だからである。
だが、山都町の現在の姿は一朝一夕に出来たものではない。
そこには、一人の男の強い信念と熱い情熱があった。

chapter01

高台から山都町を見渡すと、美しい棚田が広がっていた。
しかし、景観としては美しい棚田も、良く見ればどの田んぼも区画が小さいので、恐らく、機械は入れづらく、とんでもなく手間がかかるであろうことは容易に想像できる。だが、だからといって、この目の前の棚田に農薬を使う農家は、現在の山都町では一人もいない。
「ただね、有機農業で米を作り始めた頃は厳しかったですよ。近所の農家さんから『あなたのところが農薬を撒かないから、うちの田んぼにも虫が来る』と言われてね」
当時を思い出したのか、目の前の棚田に目を細めながらそう語る村山信一さんは、1947年、農家の長男として山都町に生まれた。家督を継いだ当初は、村山さんも農薬を使用していた。
「10年くらいかな、私が農薬を使っていたのは。農の薬というくらいだから、いいものだと思っていました。ところが、ある時から急に腕の辺りがビリビリビリビリ痺れるようになった。原因は農薬だった。そこから有機農業を始めることを考え始めた」
村山さんを有機農業へ後押ししてくれたことがもうひとつあった。近隣の矢部町で「第三回有機農業全国大会」が開かれたのだ。昭和52年のことだ。

「当時は、周囲で有機農業に取り組んでいる農家はいなかった。だけど、何でも試してみる。人がやっていないことを最初にやる。人の真似をするよりは、誰もやっていないことを一番最初にやりたいと思う性格だから」
とはいえ、いきなりすべてを有機農法に変えてしまうことにはためらいがあった。
「本当に農薬を使わずに作物が育つのか」
それを実証するために、小さな畑でジャガイモやサトイモなど簡単に作れそうなもので試してみた。
「初めて、サトイモ植えた時は、何もわからんで植えたわけです。そうしたら、もう草だらけ。草取りが仕事になっちゃった」
それでも諦めなかった。生活は何とか出来ていたが、このまま慣行農家としてやっていてはそう遠くない未来に収入がもっと減っていくだろうと感じていたからだった。だから、初めての有機農業に四苦八苦しながらも、同時に販路を開拓するべく飛び回った。それには、一人でやるよりも、たくさんの仲間と一緒に連携した方が出荷数も確保できるし、販路の確保もしやすい。

「有機農業に取り組んで2年経った頃だったと思う。この山都町に有機農業研究会という部会を作り、代表も自分でやりました」
地元生協の職員らともタッグを組んで共に有機農業を学び、共に作物を育てた。作業が終わると、全員一緒に村山さんの家でご飯を食べた。そんな時も、話題はいつも田んぼや畑のことだった。

chapter02

「野菜がある程度できるようになったので、米を有機でやろうと思ったんだけど、有機に効果的な資材も情報も何もなかった。どうしようかと考えていたら、標高の低い平地の田んぼではジャンボタニシが出て稲を食べているという話を聞いた。うちは標高480mの高地にある。もしかしたら、ジャンボタニシをこっちの田んぼに入れたら雑草を食べるんじゃないか」
目論見はズバリ的中。田んぼに放したジャンボタニシはきれいに雑草を食べてくれた。
「それだけじゃなく、あえて農薬をかける田んぼも作った。比較するためにね。すると、農薬をかけた田んぼだけが虫にやられた。なんでかといえば、農薬をかけると蜘蛛も来なくなる。蜘蛛の巣が張られないので、虫が寄ってくるんですね。『これが農薬の弱さか』と実感しました」

そんな村山さんの田んぼを見て、周囲の農家も徐々に有機農業へシフトするようになった。
「そうして、農薬を使わない農家が一人増え、二人増えと続いた。研究会に参加する農家も増えて、80人に増えた。そういった積み重ねがあって、今、ここで田んぼに農薬をかける農家はかなり少なくなりました。」

そうはいっても、すべて苦労なく順調に来れたわけではない。
「もちろん、失敗も沢山あります。例えば、昭和63年に水害が起きたのですが、その時、私の田んぼは全滅した。ちょうど、息子が帰省してきていた時でね。息子が田んぼを見て『これじゃあ、大学を辞めないといけないな』と言ったことは、今でも鮮明に覚えています」

土作りも苦労の連続だった。村山さんの田んぼは、粘土質と火山灰が混ざったような土が多い。
「火山灰土の米は美味しくないんです。だから、鶏糞と山草を混ぜて、そこに米ぬかを入れてじっくり数年間寝かせて堆肥を作りました。今、使っている堆肥だって20年前に作ったものを使ってます」

村山さんと話していると、村山さんは困難な壁や失敗をまるで恐れていない。むしろ、解決すべき課題と前向きに捉え、あらゆる壁や失敗に対して、とことん自らの頭と田畑で手を動かすことによって乗り越えることを楽しむ、タフな精神力の持ち主なんだなと気づく。
「例えば、田んぼの苗床。苗を並べてマルチを使ってみた。すると、それを見た普及所が一気に広めた。他にも、ピーマンやキュウリの支柱の立て方や、栽培の仕方もいつも工夫して、新しいやり方を考案すると、それも広まっていった。農業技術に特許があったら、今頃は大金持ちだったかもしれない」と笑う。

村山さんのなんでも研究する姿勢を物語るエピソードがある。前章で、初めて有機栽培に挑戦したのはサトイモだったと書いたが、栽培を始める前から村山さんの研究は始まる。というのも、サトイモは水を必要とすると言われるが、どれくらい必要なのかが分からない。すると、村山さんは、一升瓶にじょうごをつけて、サトイモの葉から一晩でどれくらいの水が放出されるのか測ることにしたのだ。

私は、いつも、この時、この瞬間のすべてが良いと思ってる

chapter03

「サトイモの涙っていうんです。お天道様が沈むと、葉っぱの先からチューっと水が出るんです。それすら知らない農家も多いかもしれない。それで、測ってみたら、一晩で二合分の水が溜まっていた。たった8時間か9時間程度でそれだけの水を放出していた。そこまでしてみて『なるほど。サトイモに必要な水分量はこれくらいなのか』と腑に落ちるわけです」
そうして得た知識を村山さんは隠すことなく、尋ねてくる農家には惜しみなく教えた。有機農業を伝えたい。その思いだけだった。

話をしながら、レタス畑へ移動した。路地栽培で丸いレタスを綺麗に育てるのはかなり難しいと言われるが、村山さんの畑では見事にまん丸なレタスが育っている。畑の中を歩きながら、村山さんが支柱に立てかけてあったペットボトルの容器を振って見せる。中には幼虫が入っている。
「これが、オオタバコ蛾の幼虫。この虫が1番被害を与えます。この虫はレタスの中に入って、柔らかいところを食べながら自分を成長させていく。だから厄介なんです。卵をいっこずつつけていく虫と、1カ所にバーッとつけていくタイプの虫がいます。この虫が来たら一匹一匹、手で取っていかないとダメですね」
とはいうものの、村山さんが振ってみせた容器には何匹もの幼虫が入っている。幼虫が自分たちからこの容器の中に入っていく仕掛けでもあるんだろうか?

「いい所に目をつけたね。これが私の一番の特許(笑)。私は養蜂もやってるんですけど、ある時、クマンバチ対策に何か作ろうと思ったんです」
ニヤッと笑うと、いたずらっ子が自分のいたずらを告白するような、嬉し恥ずかしそうな表情で村山さんはその液体の中身について話し始めた。驚いた。本当に、自分が苦労して得た知識を惜しげもなく伝えてしまうのだ。

「この液体の中身は、酢と砂糖と酒。よし、全部教えますね。砂糖250グラム、酢200cc、酒(料理酒でいい)600ccを用意する。まず、最初に鍋に酒を入れて、ゆっくり弱火で加熱しながら砂糖を入れる。そうして、砂糖が溶けたら、最後に酢を入れるんです。これが、クマンバチだけじゃなくて、畑につけてみたら虫対策に最高だった。もし、やってみようという人がいたら、どんどんやって欲しい。

確かに、農家は『これ』っていう自分が編み出したやり方は教えない人も多い。でも、私は有機農業はその人の努力次第の農業だと思う。どんどん若い人たちに育って欲しい。そのために伝えるべきことはどんどん伝える。あとは、ひたすら畑で、田んぼで汗をかけって言いたい」
これからの世代のことへ話が及ぶと、村山さんの口調が一気に熱を帯びた。

chapter04

「今、そして、これから有機農業に取り組もうとする人へ、私から贈れるメッセージは、有機農業は先手必勝だということ。これに尽きる」
農業における先手必勝とは一体どんな意味なのだろう。

「私にとっての、有機農業の基本は草を見る前に草対策をすることなんです。草が出始めてしまうとどんどん大きくなっていくので大変になる。昔はその辺のことがよくわからなくて大変だった。だけど今ではちょっとこう畑が空いている時に、機械を中に入れて耕しておく。そうして雑草の目を摘む。
昔からよく言っていたでしょう。上農は草を見ずして草を取る。中農は草を見てから草を取る。下農は草を見ても草取らず。特に、有機農業の場合は草を見る前に対策をしておくことが必要。つまり、草が出る前に手を打つっていうこと。これが先手必勝」

熊本では、目新しい物好きという意味の方言で「わさもん」という言葉があるが、村山さんは自分を「生粋のわさもん」と言う。
「有機農業を始めたことも、誰もやったことがないことを、誰よりも早くやってやるって気持ちでいっぱいだった。最初に作ったって話したサトイモも、火山灰の土ではよく出来るんです。ただ、じょうごでサトイモの涙を見ていたから、水分をたっぷり必要としていることを知っていた。だから、日照りが続くだと思えば、その前に、いつもより水を入れておくんです。それも先手必勝」

農業には、実際のところ、勝ち負けは存在しないのかもしれない。だが、これまでの40年に及ぶ有機農家としての歴史の中で、何人もの理想や希望に燃えていたはずの若者たちが農業への道を諦めてきた姿を見続けてきたからだろう。
村山さんは、「私は、いつも、この時、この瞬間のすべてが良いと思ってるんです」と言った。それを聞いて、農家が農家として当たり前の幸せを手にすることを勝ちだと言っているのではないかと思った。

「山都町は、一見すると標高も高いし、起伏が激しいから有機農業に向いてないって思うかもしれない。ところが、この標高が朝晩の寒暖差を生んでくれるので、野菜も米もグンと甘みが増して美味くなる。だとしたら、後は誰もやったことがない作物を育てて売っていけばいいってことになる。それも先手必勝だから頑張ってほしい」
と言ってから、ひとこと付け加えた。
「といっても、私も死ぬまで現役だからね」
そう言って不敵に笑う「わさもん」の頭の中には、まだまだたくさんの先手必勝のカードが残されているのだろう。

photo/Kentaro Kumon text/Takashi Ogura

村山信一(Shinichi Murayama)

1947年熊本県生まれ。農家の長男として生まれ、当初は慣行農をしたが、地元農協内に有機農業研究会を設立し、4年間代表を務める。生産団体「御岳会」の設立や生協との提携などにも取り組み、現在、有機農業の町として知られる山都町の礎を築いてきた牽引者。

写真家の眼

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