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普通の農家は草をどうやって減らすかを考える。私は真逆。いつもどうやったら草が増えるかを考えている。

圃場は、農家を写し出す鏡だ。

口では立派なことを言っても、鍬や鎌など大切な道具を圃場に錆びつかせたまま放置しているような農家は
仕事も荒く、作物の出来や味も不安定なことが多い。
逆に、除草もきちんとして、使い終わった道具も綺麗に掃除して整理している農家の仕事は丁寧で、
作物の出来や味わいもしっかりしていることが多い。
舘野さんのご自宅の目の前にある田んぼを見た瞬間、
心の中の汚れがさっと拭われるような、晴れやかな気持ちになった。
圃場を見ただけでこんな気持ちになったことは初めてだった。
こんな田んぼを作り上げた舘野さんとは一体どんな人なんだろう。

chapter01

舘野さんは、1954年、農家の長男としてここ栃木県野木町に生まれた。
「子供の頃から漠然と農家を継ぐものだとは思っていました。子供の頃のことでよく覚えているのは、うちの雑木林が本当に綺麗だったことですね。
例えば、落ち葉がありますよね。うちでは家族総出で徹底して落ち葉をさらって、それを1箇所に溜めておいて、数年間もの時間をかけて堆肥にしていたんです。小枝は燃料にしましたし、雑木林と暮らしが密接に結びついていたんですね。あの頃の雑木林は今の雑木林と比較にならないほど綺麗でした。美しかった」
子供の頃のことで印象に残っていることは何かと聞いた答えが、この言葉だった。少しはにかんだように、穏やかな口調で訥々と話す舘野さん。

高校を卒業後、最新の農業知識や技術を身につけるということで両親を説得して山形大学の農学部に進学。農薬や培養技術など学ぶ一方で、舘野さんが夢中になったのは入部した山岳部での活動だった。
「うちの周りは田んぼと畑ばっかりだったから、手つかずの自然が残る山々の姿には感動しました。通常の登山だけじゃなく、岩登りや冬山登山まで東北の山は大抵登りましたよ」
目の前で雪崩に遭遇したこともあったし、遭難した先輩が亡くなってしまったこともあった。それでも山の魅力に取り憑かれていた。

「山に通うようになって、自分の自然観がガラッと変わったことを覚えています。例えば、うちの周りのような田んぼと畑が多い自然環境って、自分の土地だからということもあるので、自分たちの都合の良いように木を切ったり、重機入れたりして姿を変えちゃいますよね。
山に入ると、そんな自分たち人間なんてアリみたいなものなんですよね。圧倒的に山の大自然の方がデカイわけです。雪の山頂で見た雲海や朝日、分け入った山中で出会った滝とか。どう考えても人間の力なんて及ばないんです。そして、とてつもなく美しかったんです」

美しいー幼少の頃の雑木林の記憶と、自身の自然観を覆した山岳部での体験。そのどちらの経験も舘野さんは美しいという言葉で表現した。これらの言葉を聞いて、どうして舘野さんの田んぼを見た瞬間に心が晴れやかになったのか。その理由がなんとなく分かった気がしたのだが、当時の舘野さんは農薬を使って作物を栽培する慣行農法を父から受け継いだところだった。
「ショックだったのは、大学で学んだことが、実際の畑や田んぼでは役に立たなかったことです。例えば、病理学を学んでも畑で病気が出たら対処できなかったんです。応用が全く効かなかった」
ショックなことは続く。父が事故に遭い、農作業がままならなくなってしまい、田んぼも畑も舘野さんに任されるようになった。そして、米作りにおいて、最も大切な稲の苗作りに失敗してしまったのだ。

chapter02

「ちょっとした事が原因で高温障害を起こさせてしまって、苗が全部ダメになってしまった。それで親戚とか友人を回って余った苗を分けてもらって、かき集めてきたんですけど、やっぱり少ないんです。仕方ないから、それまでの田植えと比べたら相当に粗く植えたんです」
植えた苗が少ないんだから、米の収量も殆ど無いだろうと思っていた。ところが、思っていた以上に収量があった。
「結果的に疎植栽培の可能性を示唆してくれたんです。その時に、自分は稲のことは何も知らなかったと気付くわけです。そこからですね。稲のことを勉強し始めたのは」

文献を紐解き、様々な農業関係者にも話を聞きに行くようになった。ある人から「稲の研究をしている人がいる」と紹介されたのが、後に舘野さん自身も一員となる民間稲作研究所を率いることになる稲葉光圀さんだった。
「稲葉さんは当時は農業高校の先生でした。そして、稲作の機械化と共に小さな稚苗で田植えするのが主流となりつつあった時代に、苗を大きく育ててから植えるという『成苗二本植え』を提唱されていたんです」
今から40年ほど前の、まだ有機農業という言葉すらなかった時代だ。

「稲葉さんは、ハウスで育てたヒョロヒョロの稚苗。葉っぱが2枚くらいの苗を植えても稲の本来の力を出し切れていないと仰っていました。反対にそれこそ江戸時代の頃に手植えしていた時は葉っぱが5枚くらいまで出揃った丈夫な苗を植えていて病害虫にも強かったとも話された」
稲葉さんは疎植栽培も勧めていた。稚苗の密植栽培では生育するにつれて陽が当たる葉とそうでない葉が混在し、稲の受光態勢が悪くなり、結果、稲が穂を出してから実るまでの登熟に影響するからだ。
具体的な写真や図表なども用いながら行われる稲葉さんの勉強会に通う内に、少しづつ仲間も増えた。集まった仲間の動機こそ違ったかもしれないが、稲のことを知りたいと思う気持ちは一緒だった。そんな仲間たちと全国各地の生産者を周り、現地での勉強会も重ねた。大学で学んだ事が役に立たず、周囲の農家からも真摯なアドバイスを受けられず暗澹たる気持ちだった舘野さんの心にどんどん光が差し込むようになってきた。

同時に農薬を使うことへの疑問も持った。上記した苗作りの失敗の時も、途中で異変を察知して農薬を使ったのだが全く効果がなかったのだ。
「勉強を重ねる内に、稲の特性や本来の姿を知っていくと、農薬というある種不自然なものを自然の苗に加える事がおかしいんじゃないかとも思うようになっていくんです。稲葉さんも減農薬や低農薬での栽培にシフトしつつある時期でした」
時代的にも、農薬と化学肥料の使用が生態系に与える悪影響など環境汚染問題について書かれた有吉佐和子の『複合汚染』がベストセラーとなっていた。敏感な消費者たちは、農薬を使用していない野菜や米を求めるようになっていた。
「でもね」と舘野さんはいう。
「最初から無農薬で農業を始めるならそれでいいんだけど、既に農薬を使って作物を育ててきている農家からしたら農薬を使わないのは怖いわけです。病気になるんじゃないかとか、収量が減るんじゃないかとかね。そういう壁がある。私も、成苗2本植えや疎植栽培こそすぐに実践したんですが、無農薬栽培に踏み切るまでにはなかりの勇気が必要でした。だから、いきなり農薬使用ゼロにはできなかった。少しづつ、使う量を減らしていったんです」

耕したり、草を刈ったりすることは自然破壊ではなく、人間も含めた自然を作る方法

chapter03

ここまで話を聞いて、舘野さんに田んぼや雑木林を案内してもらうことになった。自宅の目の前の、まだ田植えされていない田んぼを見て「本当に綺麗な田んぼですね」というと、「さっき農薬の話をしましたよね。今、この田んぼにはたくさんの種類の虫たちや草たちが生きています。農薬を撒いていた時は、いくら人体に影響はないと言われても、農薬を撒いた翌日、田んぼに行くとおたまじゃくしやヤゴや色んな生き物が死んで浮かんでいたんです。結局は毒なんですよ」というと、「今日はまだかえる見てないな」と言って畔の草をかき分け始めた。その姿を見て思い出したのが、舘野さんの農場『舘野かえる農場』のHPに書かれた
『舘野かえる農場は、舘野廣幸が経営する有機稲作を中心にカエルやトンボなど自然の生き物を活かした有機農業を展開しています』という一文だった。

「実際に農薬の量を減らすと稲の病気が減ったんです。それでも農薬ゼロになかなか踏み切れませんでした。いちばんの問題は、なぜ農薬を使わないのか、なぜ有機農業やるのかということに対する自分自身の思いですよね」
そして、舘野さんにとって、有機農業とは、例えば作物のブランディングのためとか、消費者に安心安全な食べ物を届けるためとかではなく、子供の頃に見た雑木林の記憶とか、大学時代に山岳部で通った山が見せてくれた自然の力とか、そういった本来の自然と人間が調和した農業だからこそ、取り組まれるようになったのではないかと思った。

「じゃあ、舘野さんはどのような思いから農薬ゼロに踏み切れたのですか」と改めて訊ねた。
答えは驚くほどシンプルだった。
「生き物を殺したくないんです」たった一言。
その想いだけで、舘野さんは’92年頃より無農薬栽培への取り組みを始めた。農薬を減らし始めてから10年目のことだった。人によっては、舘野さんのこの答えを青臭い理想論という人もいるかもしれない。だけど、こうして舘野さんの田んぼに立ってみたらよく分かる。
「最近、農業自体が環境破壊の要因の一つであるというような論調も耳にしますが、私はそうは思いません。人間が生きていく上で、逆に人間が関わることによって生み出す自然もあると思います。耕したり、草を刈ったりすることは自然破壊ではなく、人間も含めた自然を作る方法なんじゃないかと思うんです」
ああ、舘野さんは、自分自身が美しいと感じた自然と同じように生きたいのだなと思った。だから、舘野さんの田んぼを初めて見た瞬間に、心が晴れやかになったのだろう。なぜなら、舘野さんの田んぼは、舘野さんが虫や草や稲たちと一緒になって作り上げた自然そのものだったのだ。30年もの時間をかけて。

横の田んぼに目をやると、大きく育った稲の苗がずらっと並んでいる。
「成苗に育てるということは、必然的に田植えが遅くなります。そうすると代掻きのタイミングも遅くなりますし、私は3回は代掻きしますから、田植えの6月までに田んぼに入った雑草の種は取れちゃうわけです。合わせて成苗は背が高いから田植え後は深水も出来る。それで草が相当抑えられる効果もあるんです」

chapter04

麦や大豆を育てている畑を見せてもらった後に、話題にも出ていた雑木林に案内してもらった。間隔を開け植えられている樹々は枝が綺麗に整理されていて、その隙間から光が差し込み、雑木林全体を柔らかな光で満たしている。気が付いたのは、あちこちに積まれた落ち葉の山。
「ああして、集めた落ち葉を年度ごとに重ねておくんです。雑木林は直射日光が当たらないので微生物の活動が一番活発になるんです。だから、林の中で堆肥作りするのが一番いい。この雑木林ひとつで私の田んぼの堆肥は賄えます。それに大豆も育ててるので、クズ大豆も使えますしね」
子供の頃はもっともっと綺麗だったというが、今でもとても美しい雑木林だった。そしてその雑木林があることで舘野さんの田んぼも活かされている。

「化学肥料は便利なんですよね。農薬も使う人にとっては便利なのかもしれません。でも、そうやって便利なものを手にしたことで、稲のためなら寝る間も惜しんで田んぼに行って色々やっていた時代と比べると、稲そのものに対する意欲が失われているんじゃないかとも思います」
確かに、多くの米農家が口にするのは、「いかに効率よく、いかに収量を上げるか」ということに集約されることが多い。こんなにも稲の本来の姿や力を追い求めている農家に会ったことがなかった。
「考えてみてください。田んぼも畑も作物を作り続けると豊かになってどんどん良く出来るようになるんです。これが工場だったらどうですか。使えば使うほどに機械が痛みますよね。農業における土っていうのは毎年毎年使っていく程良くなっていくんです」
訥々とだが、舘野さんの口調に熱が帯びる。
「米は白米にして食べると90%以上がデンプンです。デンプンは炭素、水素、酸素からできています。これ全部空気中にあるものですよね。そして稲を育てるのに必要なリン酸やカリなんかは、米ぬかを田んぼに戻したり、土の中の鉱物から吸収できます。肝心な窒素は、自分で育てている大豆の根粒菌の力も使えますし、雑草を活用すれば十分です。つまり、化学肥料とか与えなくても、本当に必要なものは全部身の回りにあるんです」

「成苗二本植え」「深水」に加えて、舘野さんのお米作りに欠かせないのが、実は雑草なのだ。
「そもそも地球上に土ができたのも、雑草が作ってきたわけです。雑草には共生している微生物がたくさんいるんです。この微生物の量が大事なんです。だから、普通の農家はどうやって雑草を減らすかってことを考えるわけですけど、私は逆で、いつも雑草を増やすにはどうすればいいかって考えてるんです(笑)」
雑草の種類が多様になる程、それに集まってくる虫や生き物たちも増える。害虫もいれば益虫もいる。その多様性が広がるほどに、偏りのない生態系が育まれ、少しづつ、舘野さんの田んぼは自然になっていったのだ。その鍵が雑草を増やすことにあったとは考えもつかなかった。

「これからやりたいことがひとつあるんです。それは『雑草農業』を確立させること」そういうと、少しだけ声を出して笑った。長い取材の間、舘野さんは苦労した話も、嬉しかった話も、すべて淡々と話した。それは、一本の稲が、雨に打たれても、晴天に恵まれても、どんな状況でも自分の生命力をまっとうすべくただ静かにすくっと根を張っているのと同じように、自然の一つの人間として、農家として、自分がなすべきことだけをただただ毎日毎日積み重ねてきただけだと伝えられているように思えた。

取材を終えて、改めて舘野さんの田んぼをしばらく眺めていた。やはり、圃場とは農家を映す鏡だ。目の前でカエルが田んぼに飛び込んだ。

photo/Kentaro Kumon text/Takashi Ogura

舘野廣幸(Hiroyuki Tateno)

1954年栃木県野木町生まれ。大学卒業後、実家の農家を継いで就農。1992年頃より有機農業に従事。自身の「舘野廣幸カエル農場」を経営する傍ら、NPO法人民間稲作研究所の理事、NPO法人日本有機農業研究会の理事も務める。宮沢賢治を敬愛し、宮沢賢治の講座も行っている。

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