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売れるものを作る。 それがプロフェッショナル。

京都・太秦。時代劇の撮影所があることで全国的に知られる土地は、茄子の生産地としても知られている。
その太秦の地で、京都の有機農業界を牽引してきた男がいる。
400年余り前から代々農家を営む家系に生まれ、17代目の当主を務めた長澤源一さんだ。
取材で訪れたスタッフに、開口一番、長澤さんは言った。
「『オーガニックの世界には、自分はプロだ』という意識と誇りが欠けている」
一見、大先輩から若手農家への叱咤のようにも取れる言葉だ。
だが、35年前から独学で有機農業を営み、自ら農業塾も主宰してきた長澤さんの人生を辿ると、
この言葉は、有機農業はもとより、現代のビジネスにおいても最も必要とされている、
ある「対話」の形を示唆していた。

chapter01

冒頭でも触れたように、長澤さんは、太秦で400年余り前から代々農家を営む家系に長男として生まれた。本人の言葉を借りれば、「農家になりたいではなく、農家を継ぐ者」として育てられた。
「長男である私は跡取りなんです。そやから、子供の頃から法事とかあると、私は祖父の横に座らされる。それで、他の兄弟や母たち女性にはつかない本膳が出される。そういうことなんです。そういう立場からなった農家やから、『こんな農家になりたい』なんてイメージはありませんでした」
高校生の頃は、地理の教職に就きたいと思ったこともあったが、叶うことはなかった。大学の農学部を卒業すると同時に、父とともに畑に立つようになった。夏は茄子をメインに、冬場はほうれん草や葉物やネギを栽培していた父は、野市民営の卸売市場に出荷していた。
「京都は、日本で一番古い近郊農業の産地なんです。種屋さんがいて、肥料屋さんがいて、鍛冶屋さんもいる。農協ができるずっと前から、そうしてたくさんの人口を支える農業として機能してきた。ウチが出荷していたのは野市でした。ちなみに京都市中央市場は日本の公設中央市場で一番古い市場です」
日本一歴史のある市場のある町。そこに集うのは、名うての野菜の目利きたちばかりだ。そんな目利きたちを相手にするからこそ、市場には、色や形はもちろんのこと、袋詰めまで一切隙のない野菜たちがズラッと出荷されていた。
「ものすごい綺麗ですよ。箱詰めも、袋詰めも。なんでか。ちょっとでも高い値段で売りたいから。当然、綺麗なもんから売れます。スーパー行っても、同じ値段やったらちょっとでも綺麗な方を買いますでしょう。結果が全てだからね。口でなんやかんや言うても、お粗末な荷造りとか出荷形態やったら気持ちが入ってへんのです。それはプロがすることじゃないんです」

父や市場で出会う関係者たち、また、そこに並ぶ野菜の姿を見ていくうちに、長澤さんの心の中にはプロの農家としてのあるべき姿が芽生えた。しかし、それは同時に、ある疑問をもたらすようになる。それが農薬の散布だった。
「農薬散布は体に負担がかかりますからしんどいんですよ。それに、散布した後の畑に行くと虫や蛙が死んどるわけです。『こんな危険な薬をかけた野菜を人間が食べてええんやろか』って素朴な疑問が湧きました」そのことを父に問うと、父は即答した。
「こうせな売れへん」
長澤さんは考えた。こんな危ない薬をかけないと売れない野菜。売れないということは、消費者が望んでいない商品ということでもある。すると、つまりは消費者自身が農薬を肯定していることにもなる。しかし、本当にそうだろうか。一体、どれくらいの消費者たちが農薬の危険性を知っているだろうか。数珠つなぎに浮かぶ疑問に答えは見つからない。そして、32歳の時、長澤さん自身が農薬散布の後に倒れてしまった。この時、真剣に有機農業へと目を向けた。
「それまでも、自然食品店なんかで有機栽培の野菜は見ていました。食べたこともあります。でも、正直いうと、どの野菜も『これではな』っていうレベルでした。もっとはっきりいうと、こんな野菜では有機農業は絶対伸びひんなと思ってました」
プロの農家として、売れるものを作る。それが農家の仕事である。だが、一方で、プロであるならば、生産物に対する責任もあるはずだ。煩悶する日々が続く中、父から家督を受け継ぐ時が来た。長澤さんは決断した。有機農業に取り組もう。今から35年前のことだ。

chapter02

家督を継いだその日から、長澤さんの有機農業への挑戦が始まった。手始めに、除草剤と殺虫剤を撒くことを止めた。畑の様子の変化にすぐに気づいた父から「なんで農薬をやらんのか。はよやらんけ」と注意されるが、「はいはい~」と生返事ばかりでごまかした。
「(有機農業を)始める前は、昔は農薬なんてなかったから、誰もが有機農業やってたわけですよね。だから、簡単にできると思っていたんです。とりあえず、化成肥料を使わずに、菜っ葉の種を蒔いたんです。ところがいつまで待っても発芽しない。で、よう見たら発芽した痕跡がある。軸だけ残ってるんですよ。当時は何に食われたのかわからない。ほんで、また蒔き直すとまた食われる。こら虫やなと。どうしたと思います?土をバーナーで焼いたんです。これで虫を殺しただろうと思うとるわけです。でも、そんなんでうまくいくはずないですわな」

農家として一番簡単に育てられるはずの葉物さえ育たない。一体、どういうことなんだ。毎日、畑に行っては答えの出ない疑問の解決法がないか考えていた。そんな長澤さんの姿を見て、近所の農家が声をかけてくる。
「この頃ちょっと面白いことやってるみたいやけど、なにしてんのや?」
反射的に答えてしまった。
「『有機栽培やってんのや』と、この一言を言うてしもうた。言うたらあと引けへん。そこからは意地やね」
意地とは、言い換えれば、自分はプロの農家であるという矜持である。なんとしてでも、有機栽培を成功させようと、年間で120種類もの種類の作物の種を蒔いた。
「家庭菜園用の小さな袋の種を買ってきて、人参や白菜や葉物とか、とにかくいろんな野菜を少しづつ、時期もちょっとずらしながら蒔きました。なにが育ってくれるのかわからなかったので、まずはデータを取ろうと思ったんです。今はやり方がわからへんだけで、そのやり方さえ掴んだらと必死でした。
うまくいかへん時でも、私はずっと自分をプロだと強く思っていました。何か足しになるものはないか。為になるものはないか。どうしたら良くなるか。そういう思いで見ている人と、そうでない人とでは同じものを見たり聞いたりしても掴めるものが違うんです」
『有機でも慣行農法、化学農法と同じくらい綺麗な農産物ができるんやというのを知らしめたい』という思いで飛び込んだ有機農業の世界だったが、現実は厳しかった。売れるものではなく、今の畑で取れるものを出すしかなかった。長澤さんが収穫してきた野菜を、妻が自転車のカゴに積んで友人や知人を回って販売した。

「妻は、『有機やから、なかなか上手にできへんのやわ』言うて売ってたんやと思います。味は、まずかったです。お客さんが安定しなかったんです。続かへんかった。ということは、やっぱりまずかったんやね」
そんな長澤さんの様子を見て、ある時、父に言われた。
「お前に任せたん、間違うてたわ」
経営は厳しく、精神的にも追い詰められる日々が続く中、最初に訪れた転機は、堆肥だった。当初3年間くらいは、無料でもらえる牛糞堆肥を使っていたのだが、どんどん葉っぱがバリバリに硬い葉物しかできなくなった。かつて野市に出荷していたようなぴかぴかの野菜には程遠い出来だ。そこで、堆肥を鶏糞に変えてみると、少しづつだが綺麗で美味しそうな作物が収穫できるようになってきた。そうして自転車のカゴに収まりきらなくなった野菜たちは、軽トラに積んで、長澤さんが運転し、妻が販売するようになった。
「その頃だったと思いますけど、ある時、肥料屋さんが来て、微生物資材いうのを持ってきたんです。『微生物が土壌の環境改善をします』って。最初は、『土は土やろ』と思ってたんやけど、話聞くうちに『微生物いうのも考えなあかんのや』と、ようやくそこまで辿り着くわけです。今やったら、新規就農者でもすぐにわかることを、えらい長い時間と失敗と金を使って、ようやく分かるわけです」

弟子たちを見るとありがたいという気持ちになるんです

chapter03

「そこから、緑肥を育てて鋤き込むことや、太陽熱消毒をするようになるまで、自分なりに考えてやり方を編み出していったわけです。そこまで10年かかりました。やっと、これなら京都市中央市場に出してもええかなと思える野菜が収穫できるようになった」
有機農業を続けられたのは、自分のプロとしての意地だとと長澤さんは言った。だが、プロという点だけで考えるなら、それこそ、ずっと中央市場でも一番売れる野菜を育て続ける道だってあったはずだ。なにが、ここまで長澤さんを有機農業に駆り立てたのだろう。何度も何度も言葉を変えて質問していくと、少しづつ長澤さんが胸に秘めていた思いが口をつき始めた。
「私はね、農業したいって言ってる人、国の宝やと思います。そして、有機栽培は、作り手にとっても、食べる人にとってもええと思います。だとしたら、有機農産物が一般的にならんとあかんのです。それにはね、穴空いた菜っ葉売ったらあかんのです。股割れした大根、消費者が喜んで買いますか。調理しにくいし、学校給食にも使ってもらえへん。一般化しようと思ったら、お客さんの価値観に合わせないといかんのです」
冒頭で書いた、「長澤さんの人生を辿ると、有機農業はもとより、現代のビジネスにおいても最も必要とされている、ある「対話」の形を示唆していた」という「対話」の形とは、まさにここである。
ここ数年、マーケティングやブランディングなどで、さかんに「物語(ストーリー)を語ることで共感を呼ぶ」という手法が喧伝されている。それに倣うように、マルシェなどでも自身の「物語」を語る農家が増えた。だが、農家が語る自身の物語の中には、当然だが、それを買うお客さんの「物語」は入っていない。

長澤さんがすごいのは、まず、お客さんたちが、綺麗で美味しそうな野菜を欲しいと思うということを一番優先していることだ。まず、それを受け入れて、だったら、プロとして、慣行農法に劣らない綺麗で美味しい野菜を有機栽培で作るのが自分のプロとしての仕事だと、飛んでもなく高いハードルを自らに課す。なぜかと言えば、それをやらない限り、長澤さんが最も生み出したい『有機農業が一般化する』という物語が達成できないからだ。
生産者と消費者の間にずっと横たわる大きな溝。このように、関係性の中で生じる課題を解決するための新しい対話の形がビジネス界においても注目されている。キーワードはナラティブ。ナラティブとは、お互いの立場や役割によって生まれる「解釈の枠組み」である。ここでなら、生産者と消費者は、それぞれ異なった立場や役割があるので、当然それぞれのナラティブも異なる。
例えば、学校給食を例にとろう。「安心で安全な食材を販売して生計を立てたい」生産者と、「安心安全は必要だけど、僅かな調理時間で大量の調理を、それも毎日しなくてはならない」提供側では、ナラティブは異なる。この、お互いのナラティブの間に溝があることで生じた課題を解決する第一歩として、一番大切なことは、自分のナラティブを一旦脇に置き、相手のナラティブを知ることなのである。

長澤さんは、数十年も前から、この対話を実践しているのだ。対話とは、言葉を交わし合うコミュニケーションだけを指すのではない。いかにして、自分と相手の間に広がる溝に橋を架けるか。これが対話だ。
「有機の世界で勝負しようと思ってないんですよ。一般の土俵で勝負しようと思ってるんです。私はね、日本で一番高い価格の農産物を作りたいと思ってます。なんでかいうたら、価格いうのはひとつの秤ですからね、第三者の。そのトップを目指す。職人として、農家として、極めたいなと思ってます」

chapter04

長澤さん自身が描く「有機農業を一般化する」という大きな物語のために、もうひとつの対話も行なっていた。それが、自身が主宰した有機農業塾だ。大学院での研究テーマの中の『データと論文が読める有機農家の育成』を仮説の中の一つに掲げ開校した。
「行政とかに『有機農業でここまでの野菜ができるのは長澤さんだからです』って言われてたんです。『ほな、俺以外の奴でも出来るようにしたろ』と思って始めたんです。まず初めに、10年後にどんな農家になっていたいか。その時の年収も含めて作文を書いてもらうんです。それを読んで、じゃあ、まずは、販売先は宅配なのか、道の駅なのか、出荷なのかという経営のヴィジョンを話しながら作ります。10年後のビジョンができたら、ほな5年後はどうしてたらいいのかと道標を作る。そして、その年から、自分の思いや売上なんかをずっときっちり書き込んでおかせるんです。これは、残しておくと、農家としての自分の生き様がわかる、振り返られるんです」

技術的な指導はもちろんであるが、長澤さんが最も注力したのが、弟子たちがやりたい農業をして暮らしていけることを確立することだ。いくら自然に寄り添った農法で農業をしていても、その人自身の経営が破綻していては、そもそもが事業としての永続性にかけている。理想と現実がリンクしていない。
「だから、とにかく、私が口を酸っぱくして言うのは、『作って、売って、入金して初めて仕事として成立するんや』と。作ったものを売る。売れるものを売る。当たり前のことなんですが、オーガニックの世界には、そういうプロとしての意識が欠けてる。だから、生産と同じくらい販売を大事にせえと言うんです」
塾を開いて数年が経った頃、そんな長澤さんの思いを具現化するような商談が老舗百貨店から届く。
「元々は私に来た商談ですが、売上に苦労している弟子がいました。だから共同出荷という形を取らせてもらうことにしました。これは、先に販売が確保できてる話です。となると、今度は生産です。つまり、私と同じレベルの出荷にしてもらわんと困る。それで、その年から弟子たちを集めて作物の見合わせ会をやるようになったんです」
毎年、作付け計画を提出した弟子たちが、長澤さんから学んだ技術はもちろん、自身の圃場で採取したデータや様々な情報も駆使しながら懸命に作物を育てる。

「塾からプロになった弟子は10名以上います。どんどん進化していきますね。俺よかええもん作りよるときもあります。そんなんを見てると、農民を育てられたと嬉しくもなりますし、何よりもありがたいという気持ちになるんです。私がこれまでやってきたことを、理解して、実行しとる。そんな農民を育てられたんだなと思えるんです」
撮影のために、お弟子さんたちの圃場を回ると、インタビューの時から表情は一転してとても穏やかな表情になった。そして、それぞれの圃場を歩きながら、何度も何度も「進化しとるな」と嬉しそうに呟いていた。そして、撮影を終えると、早速自身の圃場へ足を向ける。
「私は、今65歳です。4年前に息子に家督を任せました。だから、長澤農園にとって大事なナスの栽培も全て息子に任せています。一切、口は挟んでいません。その代わり、私も後10年、畑に立っていたい。そう考えて、軽くて、ニーズがあって、そこそこの値段で売れるものと考えて、バジルを数年前から手がけ始めとるんです。ただ、これがね、なかなか思うようにいかない。これから、また試行錯誤が始まりますわ。こんだけ失敗しとるんやからね。でも、失敗は認めんとね。せやないと、前には進めない」

京都・嵐山『吉兆』で自身の野菜が使われるようになった頃もそうだった。実際に吉兆で料理を食べた瞬間、「こんな野菜じゃ料理人さんに申し訳ない」とひたすらにナスの食味を上げるために試行錯誤を繰り返し、絶品のナスの栽培を可能にしてきた。
「私たち農民にとって、土は糧です。その土と、作物をとにかくじっと観察することから始めるんです」
消費者という社会の枠組みと、弟子という農家の後進たちと、そして土と作物たちと。長澤さんは、ずっと対話を続け、そして、これからも進化し続けていくのだろう。

photo/Kentaro Kumon text/Takashi Ogura

長澤源一(Genichi Nagasawa)

1953年、京都府太秦生まれ。『長澤農園』17代目当主。35年前から有機農業に取り組む。数多くの生産物に中でも、とりわけ茄子の生産者として名高く、京都の名店、嵐山『吉兆』にも食材を提供している。

写真家の眼

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