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					私が作っている野菜は商品ではなく、命の糧 だから、人間同士が有機的なつながりで結ばれる

草や森、水や太陽や土を活かした食とエネルギーの自給と循環その取り組みを、小さな石を積むようにコツコツと続けてきた

食とエネルギーの自給と循環をいち早く実践してきた金子さんの取り組みは、国内のみならず、
海外からも高い注目を集め、世界中から視察や研修生として訪れる人たちが後を絶たない。
昨年、この〈先駆者の言葉〉では、そんな金子さんが考える、
畑から始まる食とエネルギーの自給と循環についてたくさんのお話を伺った。
今回は、金子さんの畑から始まった自給と循環の輪が、
どのようにして地域の他の農家さんや、地場産業ともリンクしていったのか。
そして、どのようにして、町全体が有機農業を軸として結ばれていくようになったのか。
その答えを探すべく、金子さんとゆかりが深く、小川町のこれまでとこれからを支える人々を訪ねた。

chapter01

金子さんの歩みは、日本の有機農業と、それに取り組んできた農家の歩みそのものともいえる。金子さんが有機農業に取り組み始めたのは、1971年。まさに、日本の有機農業の黎明期である。それは、つまり、圧倒的な孤立を意味していた。

多くの農家が農薬を象徴とする近代農業に勤しむ時代において、有機農業は異端でしかなった。当時の金子さんについて話してくれたのは、現在、小川町下里で地域活性化や環境保全のための様々な活動をしている安藤武さんだ。

「最初、金子さんが有機農業を始めた時は、『変わったことやってるな』と。それが、次は、地域全体で行っていた農薬の空中散布を中止しようと言い始めた。そうなると、農家全体が『とんでもないことを言う奴だ』と大反発。特に、金子さんより、上の世代。つまり、農薬を使った近代農業こそが新しい農業だと思っていた世代が激しく抵抗した。だから、当時は、村も行政も非常に冷たかった」

安藤武さんにお話を聞いたのは、安藤さんの従兄弟である安藤郁夫さんが、後に小川町の下里地区全体を有機農業へ大転換する上で大きな役割を果たした、地元農家の信頼の厚いキーマンだったからだ。

ただ、村の人たち全てが金子さんに否定的ではなかった。安藤さんの隣で話を聞いていた奥さんは、農薬の空中散布中止の提案を聞いた時、「これで子供達に農薬を吸わせないで済む」とホッとしたという。

当時の心境を金子さんは語る。
「王陽明という中国の思想家のこんな言葉があります。『一摑一掌血(いっかくいっしょうけつ):一度掴んだら、血の手形がつくくらい掴み、絶対に離すなという意味』。私が掴んだのは有機農業だった。人の命を支えて、自然環境を守り育てる農業。それを掴んじゃいましたから、孤独とか感じませんでした。とにかく、有機農業で地域の基礎を作りたいと思ったんです。その為に、コツコツとやるだけだと思っていました」

金子さんが、自身が暮らしている小川町の下里地区の農家の方々へ、農薬の空中散布中止を申し入れたのは1975年。そして、空中散布中止が決定したのは1987年。

「随分と長い時間がかかったと思う人もいるでしょうが、それでも空中散布の中止が出来たのは、ひとつには、私がこの地区の生まれだったからです。都会と違って、村(=地区)は土着の人間じゃないと動かせない。
それと、人の健康と命にいい食べ物、そして、環境を守り育てていく農業をコツコツと実践してきたから、地域の人たちの信用を得られたんだと思います」

そんな金子さんについて、’85年の4月から、2年間、研修生としてずっと一緒に畑で汗を流していた河村岳志さんは語る。
「当時の金子さんは、端からみると四面楚歌みたいな感じでしたが、本人は飄々としてました。決して声高に自分の主張をするわけではないんです。ただ、自分の思いや目的をずっと心の奥にしまって、温めていた。そうすると、評価する人が増えてきて、確実に地域を変えていった」

「一番、私に近い生き方をしている」と金子さんから評される河村さん。当時は、研修生が河村さん一人だったこともあり、よく二人で酒を酌み交わしたという。そして、たった二人で地場産業研究会を立ち上げた。
「農場自体の循環が完成しつつある中で、次は、有機農業と地場産業が共に良くなって、それを地域の消費者が支えていくような、内発的な発展・循環する形が重要だと思ったんです」(金子さん)

chapter02

金子さんが暮らす埼玉県小川町は、今も、様々な伝統産業が息づいている地域だ。中でも、和紙と酒作りは有名で、これは、小川町をグルッと囲むように連なる秩父山系の豊富な水がもたらす恵みともいえる。町では、今なお3軒の酒蔵が精魂込めた酒作りをしている。その内の一つ、晴雲酒造さんが、金子さんと初めて手を組むことになった地場産業の会社だった。創業明治35年。五代目当主を継ぐことになる、専務の中山健太郎さんに話を伺った。

「金子さんとのお付き合いは、父の代からになります。無農薬の米で酒を作れないかと考えた父に役場の人が金子さんのことを教えてくれて、そこからお付き合いが始まったと聞いています」

実は、父親の中山雅義氏は、金子さんにとって学生時代の先輩にあたる人だった。
「私のひとつ先輩なんです。お話をいただいた時は、有機農業でほぼ個人的には自立出来つつある状態で、次は村おこしにまで視野を広げていこうと考えていた時期でした。ですから、小川町の有機農業支援の先駆けが晴雲酒造さんだったんです」
金子さんの取り組みに共感した中山雅義氏は、当時の市場価格と比較しても、破格の条件で米を買い取ることを決意。そして、金子さんの仲間、小川町の無農薬米を使った酒を1988年に販売を開始した。
「それまでも、地元の米も買っていたのですが、それは入手しやすかったからでした。しかし、金子さんとのお付き合いが始まってからは、地元の米で、地元の水で、そして小川町ならではの気候と風土に育まれ、地域の人に愛してもらえる地酒作りをしていこうと意識が変わったそうです。いわば、酒蔵としての原点に立ち戻ったんです」(中山健太郎氏)

晴雲酒造さんとの付き合いはさらに発展し、現在では『無農薬で米作りから酒造りを楽しむ会』として、田植えから収穫まで、さらには、もうひとつの地場産業である和紙作りも取り入れて、自分たちで漉いた和紙でのラベル作りまで行っている。

「よくこういうご縁ができたものだと思います」と、当時を振り返る金子さんはとても嬉しそうだ。なぜなら、晴雲酒造さんとのお付き合いは、村にひとつの大きな意識の転換をもたらしてくれたからだ。無農薬で米を作れば、農家一人一人が経済的な潤いを得ることができる。そのことを金子さんという、実在する証拠を目の当たりにして、農家さんの意識が、少しづつ有機農業を理解しようとする方向に変わっていったのだ。

「私は、農業で当たり前のものを作って、当たり前に暮らしていける形を作りたかった。安全安心なものを作れば、国内の誰かが支えてくれると思っていました。農業はとにかく面白いし、根本的かつ哲学的で、芸術的なのが農業であると思います。ですから、この天地の間で、最も人間らしい生き方が出来るのが農業だと思っています。ここで、みんなが小さい農家ながら、自立して楽しく幸せに暮らしていけば、ひとつのモデルになる。そういう仲間をあちこちに増やしたいんです」

かつては見向きもされなかった金子さんの取り組みは、じわじわと町へと浸透していった。そんな様子を、前出の安藤武さんはこう語る。
「高齢化が進んで、みんな疲れている中で、金子さんの農場は、みんな元気にやっていた。研修生もたくさん来ているし、しかもお米が高く売れている。金子さんは、これからの農業のあり方の一端を見せてくれていたんですね」
そして、ついに金子さんが言う「大きく村が動いた」という2001年が訪れた。

仮に非農家であったとしても農業をしていると思う。それくらい、農業が好きです。

chapter03

2001年、安藤武さんの従兄弟である、安藤郁夫さんが金子さんを訪ねた。安藤郁夫さんは、地元農家の信頼厚い、地域のリーダー的な存在だった。その、安藤さんが、金子さんに「有機農業を教えて欲しい」と申し入れをしたのだ。

「今の小川町の形は、安藤郁夫が金子さんを訪ねたことから、すべてが始まった。郁夫から『武くん、これからは有機農業をやろうと思うんだ』って言われたことを鮮明に覚えています。郁夫のようなリーダーが声をかけたものですから、他の農家さんの意識も変わった。金子さんも『昔の農業をやればいいんです』と言ってくれた」(安藤武さん)

「郁夫さんは、土作りのための堆肥を3年間もボランティアで作ってくれました。楽しくてしょうがないとおっしゃっていました。私は、仮に非農家であったとしても、農業をしていると思う。それくらい、農業が好きです。こんな面白い仕事はありませんよ。その農業を通じて、有機的な人間関係を結ぶことができた。こんな嬉しいことはありません」(金子さん)

惜しみなく、すべての技術を公開する金子さんの姿を見て、安藤武さんは感銘を受けたという。
「教えてくれといえば、すべて教えてくれる。あの人は私利私欲のない、万人の幸せを考えている人です。金子さんが核になって広げてくれた。でも、金子さんにそういうと『みんなのおかげです』って、まったく逆のことを言うんです」

1971年、たったひとりで始めた有機農業だった。それでも、30年という途方もない歳月をかけて、町はゆっくりと、だが確実に有機農業へとシフトしていった。

「自分が生きている内に、こんなに大きく地域が変わるとは思っていなかったです。ですから、もちろん技術はすべて公開しました。それと、販路も用意したんです。この国で有機農業を広めていくには、技術と販路のふたつが噛み合わないと広がりませんから。その販路となって下さったのが、とうふ工房わたなべさんなんです。最初に、地域全体で無農薬栽培に取り組んだのが大豆だったからです」

小川町の隣町、ときがわ町で豆腐店を営む渡邊一美さんも、大規模農業に押される小規模農家と似た境遇に、長年喘いでいた。
「資本力のある大手と同じことをやっていては、ウチのような町の豆腐屋は生き残れない。価格競争では太刀打ちできませんから。じゃあ、大手がやらないこと、出来ないことをやるしかない。そこで生まれたのが、この地域でしか穫れない大豆を農家さんに作ってもらって、それを製造直販で、お客様に直接訴えかけるというスタイルだったんです」

1999年、まず、渡邊さんは大豆を輸入大豆から国産に変えて、豆腐作りを始めた。それが評判を呼び地元で大人気となると、地元の農家さんの大豆を使った豆腐も作り、それも評判となった。そんなある日、金子さんがやって来た。金子さんと渡邊さんは、約20年ほど前の遺伝子組換えの大豆についての勉強会で顔を合わせて以来の付き合いだったが、大豆の購入を持ちかけられたのは初めてだった。

「有機大豆は高かったんですけど、機械化を図ったり、耕作面積を増やして何とか値段を下げる努力をしてくれました。それと、昔はこの地域でたくさん作られていた青山在来という大豆を復活させてくれたんです」
豆乳を濃くしてもおからと豆乳の分離が良い青山在来で作る豆腐は、濃い味わいなのにクリーミーでなめらかな豆腐となり、大評判となった。

chapter04

渡邊さんには、金子さんから言われて忘れられない言葉がある。
「私たち地元の人間からすれば、田んぼや畑の光景は日常でしかない。でも、ある時、金子さんが『田畑の色は美しい。美しい村づくりは農業からだ』って言ったんです。これにはビックリした。自然と農業が一体となった時の光景。四季折々に移り変わる風景こそが美しいと。そういう風景が人々を癒してくれるんだとも言ってました。まさに、今の時代を予見していた。あの美的感覚と先見の明には驚きました」

金子さんが提唱する食とエネルギーの自給と循環には、自然環境を守り、伝えていこうとする、もうひとつの思いが込められていた。それは、環境に負荷をかけない農業をすることで、生態系を守り、里山の自然そのものを循環させていくことでもあった。エネルギーの自給と循環の取り組みも行っていた。1994年から始めていたバイオガスプラントもそのひとつだ。

その取り組みに共鳴したのが、現在、『NPO 生活工房つばさ・游』の理事長を務め、金子さんの取り組みを点から面へと広げていく活動をしている高橋優子さんだった。
「主婦として、家庭から出る生ゴミを減らす活動をしている時に、金子さんの取り組みを知りました。生ゴミから食とエネルギーが出来ることに感動したんです」

バイオガスプラントとは、生ゴミをメタン発酵させることにより、液体肥料とメタンガスを生み出す装置だ。液体肥料は畑に蒔かれ食料に代わり、メタンガスは発電してエネルギーとなる。まさに循環の思想を体現したようなシステムなのだ。

「それで、小川町の生ゴミを資源化しようとプロジェクトを立ち上げました」
小川町独自の生ゴミ資源化は、金子さんのもとへ研修生としてやって来る農業志望者にも大きな影響を与えている。2年間の研修を経て、小川町で新規就農者として2年目を迎える仲澤康治さんもその一人だ。
「金子さんが40年以上前からやっている取り組みのおかげで、地域をベースにした循環型の農業とコミュニティが作られつつあると思うんです。それを発展させていくのが、僕ら若い世代の使命だと思っています」

前出の高橋さんからは、話の最後に金子さんへメッセージをもらった。それは、まさに仲澤さんのような次の世代への架け橋となって欲しいというものだった。
「金子さんは、日本の有機農業の草分けであり、世界のリーダーたる人だと思います。人間には与えられた立場があると思うんです。地域は人が財産ですから、金子さんにはこれからも人作りを頑張っていただきたいと思います」

このメッセージを金子さんに伝えると、「随分大きなスケールの話ですね」と照れながら、これからの世代と社会に向けての思いを語ってくれた。
「私が作っている野菜は商品ではない。命の糧なんです。だから、有機的なつながりで人間が結びつく事が出来た。
日本には、石油とか鉱物資源とかの工的資源は少ない。そのかわり、草や森、水や太陽や土といった農的資源はふんだんにあります。それらを活かして、食とエネルギーを自給して循環すること。その取り組みを、小さな石を積むように、コツコツと続けてきました。それがいい縁をもたらしてくれて、循環が始まった。村も野菜の種と同じように、興そうとする設計図を持っているんです。こうした取り組みこそが、この国を、そして世界を再生してくれると思っています」

「大好きな農業でずっと食っていきたいと思っていた」と語った金子さん。
今では、金子さんのもとで農業を学んだ若者たちは、小川町の農業を支える次世代のリーダーへと成長した。金子さんから学んだ知恵は、こうして受け継がれていく。
下里地区全体が有機農業に取り組むようになったことで、作物は酒や豆腐にもなり、多くの雇用も生み出した。なにより、地場の作物を地場産業が買い支えることで、さらに有機農業は促進されていく。そして現在では、小川町全体の耕地面積に占める有機圃場面積が13.2%(2014年度)となった。さらには、こうした環境に負荷をかけない農業に取り組んだことで、里山の豊かな生態系や自然はよみがえりつつある。

40年前の金子青年に、今の小川町の姿を見せてあげたら、どんな表情をするだろう。そして、この、畑から始まった循環の輪は、現在から未来へとさらに大きな輪となって続いていくだろう。

photo/Kentaro Kumon text/Takashi Ogura

金子美登(Yoshinori Kaneko)

1948年、埼玉県生まれ。1971年、農林水産省の農業者大学校を第一期生として卒業。すぐに有機農業に取り組む。現在、埼玉県小川町下里地区に「霜里農場」を開き、国内外の研修生とともに、米、大豆、麦、野菜、酪農、養鶏などを手がける。小川町町議会議員。NPO法人全国有機農業推進協議会理事長。

写真家の眼

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