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「循環」のなかからよきものを生み出す 金子美登

有機農家は、日本の未来を作っているつもりです。

いい農業とは、うまく土地とつきあうこと。
埼玉・小川町の金子美登(よしのり)さんの農業を見ていると、
土を活かし、水を活かし、そして人とのつながりを活かしている。
「僕が野菜や大豆や米を作れるのは周囲の人たちと一緒にやっていられるからです」
堆肥を仲間と作り、農産物は地元で豆腐やお酒になる。そしてゴミはエネルギーに。
そんな好ましい循環が金子さんの地元では行われている。

chapter01

金子さんが営む「霜里農場」は埼玉県比企郡小川町下里地区、いわゆる外秩父とよばれる山に囲まれた盆地にある。少し歩いただけで、透き通った水を湛えた川が流れ、農業用水路にも水が溢れている。農業に向いている土地だそうだ。やはりきれいな水を必要とする和紙づくりの里としても知られている。

「僕の父親はここで酪農に従事していて、僕もその跡を継ごうと考えていました」
下里地区で生まれ育った金子さんはそう語る。しかし方向転換のきっかけになる出来事に遭遇した。1960年代から70年代にかけて表面化した公害だ。
「消費者が食や自然環境に注意を向けるようになった時代です。僕はそこで、食を通して、日本の未来に貢献できないかと考えたのです」
農林水産省の農業者大学校時代、生態学的農業という手法で、農薬を使わず野菜や穀物を育てることの重要性を説いていた師たちと出合った。そこで金子さんは、天敵で害虫を抑えたり、土中の微生物の力で野菜の生育を促す農業の魅力を知る。
71年に23歳で卒業した。同じ年の10月に、日本に有機農業という言葉が誕生。金子さんはさっそく研究会に参加した。そして、有機農業を始めたのだった。

それから40年、いまの金子さんは、全国の有機農家から注目を集める存在となった。ひとつは、循環型農業という理想的なやりかたを軌道に乗せているためだ。 さらにもうひとつ、独特なやりかたで作物の販路を確保して、収益を上げているのも、多くの農家をして「理想的」と言わせるゆえんである。

「これ、なんだと思います」
金子さんの霜里農場の周辺を歩くと出くわす真っ黒い山。それを指して金子さんが訊ねてくる。
「僕たちが作っている堆肥なんです。薬品をいっさい使っていないので、良質なバクテリアが1グラムの中に数億から数兆もいるといわれています。これが根に栄養を与えてくれるし、通気性がよく水はけもよい、野菜の生育に最高の土を作ってくれるんですよ」

金子さんの農産物のなかで、大豆は地元の豆腐店へ、米はやはり地元の酒造会社へ、と販路が決まっているものがある。地元で作り、地元で加工し、地元を中心に消費してもらう。地域の中で多くの人がうるおう経済の流れが確立されている。

このように、有機農業を手がかりに、地域を活性化させるというのが金子さんの取り組み。その結果が評価されてだろう、金子さんの農場がある下里地区は、2010年に「平成22年度農林水産祭」における、「むらづくり」部門の最高賞、天皇杯を与えられた。
すぐれた農林水産業者の中からごくわずかな受賞者を選んで、農林水産省が授賞するもので、小川町など周囲の人たちと喜びをわかちあった。

「僕はいつも循環ということを考えています」
堆肥を作るのも、大豆を売るのも、地域と堆肥を共用するのも、「循環」というシステムのなかに組み込まれているのだ、と金子さんは言う。
それが金子さんの農業を、他に類のないものにしている。

chapter02

「国を花にたとえれば、もっとも大事な根は農業。これがしっかり伸びていないと、国だって枯れてしまう。人の命を支える食べ物がもっとも大事だと思います」
農業の重要性について語るとき、金子さんは「切り花国家」という言葉を使う。その危機感を持ち続けて、有機農業を続けてきたともいえる。

金子さんに強い印象を残したのは、学校で教わった、黒澤酉蔵(1885年~1982年)の言葉だった。北海道酪農の父ともいわれる人だ。
「土地からとったものは土地に戻す。“還元農法”に惹かれたんです」
具体的にいうと、牛の糞を肥料にし、それで育てた草を牛のエサにする、というもの。黒沢酉蔵が提唱した“酪農と農業を組み合わせる”という考えは、酪農の家庭で育った金子さんには、ことのほかすんなりと受け入れられた。

「ほかにもいろいろな師に出合い、得た結論は、大自然の法則をがっちりつかまえるのが農業の基本だということでした。そこで教わったことが、ブレなく農業をやりつづけることにつながりました」

金子さんには環境も味方した。ひとつは秩父の山に囲まれた地の利だ。
「ここはとてもいいんですよ。(秩父の)山を背負っています。山の木々から水が大地に落ち、それが地面から地下水になり、川として出てきます」

下里の米や野菜がおいしい理由を教えてあげましょうと、金子さんが連れていってくれたのが、地面が土でなく、緑泥石片岩とよばれる石の敷き詰められた山だった。青緑色の石が作る幻想的な眺めである。
「この山から出るミネラル分の多い水が田んぼに流れてきている。これがおいしい米を育てるんです。そして微生物が育った田んぼの水が川を経て海へ流れ込み、魚介類を育てる。森は海の恋人といったものです」
金子さんは「きれいな大地ときれいな海という関係をまた作らないといけないですよね」とつけ加えた。澄んだ水が張られた金子さんの田では稲が大きく育ち、稲と稲のあいだを合鴨が泳ぎ回って雑草をつまんでいた。

「品種にまさる技術なし」
金子さんはそう語る。農業は土地に根付いたものだということが、金子さんの主張なのだ。土地で従来から作られていた品種こそ、無理なくおいしく作ることが出来るということだ。
合わないものを作ろうとしたら、よけいな栄養や病気対策などが必要になることもある。そうしないためにも、地場品種は有機農業のとてもよいパートナーなのだ。

地場品種だった「おがわ青山在来品種」を再発見したのも、同様の考えに基づいてのことだ。甘みが強いと評判がよいのは、おそらく土地に合っていたせいだろう。
金子さんが作ったその大豆を買い上げた豆腐店では「霜里農場」ブランドとして豆腐や納豆を作り、一般消費者に好評を得ている。

chapter03

いまの金子さんに「大変なこともいろいろあるでしょう」と水を向けても、はははと笑うだけだが、1993年には、100年に一度といわれた、記録的冷害に見舞われたこともある。

「稲の作況指数は74(約7割しか収穫できないこと)でした」
金子さんは当時を振り返る。
「不作になるかもしれない、と予感したときは動揺しました。でも、空いている田畑があったので、小麦、ジャガイモ、サツマイモなどを一所懸命植え付けました」

米が不作になるぶんをカバーしなくてはいけないからだ。はたして米は減収。しかし、これらの野菜は無事に収穫できて、大きな打撃を回避することが出来たそうだ。

ヘリコプターによる農薬散布中止のために、周囲の農家を説得してまわったときも、苦労があった。
「周囲からは“この若造が(なに言っている)”としょっちゅう言われていました」

 しかし金子さんは周囲の説得を続けた。
するとあるとき “美登ちゃんが本気で言っているんだから、1年休んでみよう”と言ってくれた人がいた。
「その年、病害虫の被害も出なくて、“じゃあ(空中散布は)もうやらなくていいか”というふうに流れが変わりましたね」

さきに触れたように、天候は自由にならないから、病気に苦労することもある。
「そりゃあ、どんな作物にも病害虫の被害はつきものです。でも、大量発生で苦労することはあまりないんです。ここの大豆の収穫量は埼玉県でも上位です。僕は、農薬をなくして生物多様性がよみがえった結果かなと思っています」

日々の取り組みが実を結び、金子さんの野菜づくりの評価は上がり、取り引きが増えていった。金子さんをその頃から応援し野菜を買い続けてくれたのが、近隣の40軒の個人宅で、いまもこの人たちのところに金子さんは野菜を届けている。
運がよければ、小川町の道の駅に少量出品される霜里農場の野菜が買えるが、一般的には金子さんの野菜は幻のような存在となり、金子さんの農法は何冊もの本になった。

「ほんとうにうれしかった」
金子さんが著書にわざわざ大書した出来事は、2001年に起こった。
地元集落の機械化組合長なるリーダーが金子さんのもとを訪れ、足並みを揃えて有機農業をやりたい、と申し出てきたのだ。

「“金子さんのところは、若い人がいつも大勢いて楽しそうだし、作ったものの出来がいいし、高く売れる。小さな村はこの方向で生き残っていくしかないと思う”そう言ってもらえて、嬉しかったですね」
金子さんはこのときのことを何度も思い出すと言う。
そのリーダーは村全体の堆肥を無償で作り続けてくれた。

販路を拡大しないでいられるもうひとつの理は、大豆や米や麦などをほぼ全量買い付けてもらう契約を、いくつかの地元企業と結んでいるからだ。
豆腐や酒の原料として、さらに米は社員用に大量に買い上げてくれる(埼玉県の)企業もある。
「金子さんががんばっていたから、その努力が報われたんではないでしょうか」
小川町役場産業観光課の農政担当者は教えてくれた。

地域農家が一体となることで安定した収量が確保できるようになり、それが地元企業との関係を強める。ここでも金子さんが理想とする「循環」が確立されたのである。

chapter04

「石油価格はこれからさらに上昇するだろうし、これまで以上に燃料を節約しなくてはならない時代がくるでしょう。そこにあって、地域でエネルギーの循環が出来るようになったら、すばらしいと思います。日本の農業がしっかりすれば食料不安の問題も解決するし、環境汚染やエネルギー不足だって、問題解決の糸口が見いだせるのではないでしょうか」

金子さんがいま取り組んでいるのは、廃油や廃棄物をエネルギーとして再利用すること。たとえば、レストランなどから手にいれた廃食用油から不純物をとりのぞき、農業用トラクターや乗用車などのディーゼルエンジンの燃料として使っている。

「ほら、家庭の廃油でも農業が出来るんですよ」
金子さんはトラクターにまたがり、耕作の実演をしてみせてくれた。車両が近くを通るとき、野菜炒めのようないい香りが漂ってきた。食用油による排ガスのせいだ。幸せな気分になる匂いだ。
家庭から廃食用油を集めて地域で使えるといい、と金子さんは語る。
「小学校の給食1回分の油で、材料を運ぶ車両の往復分の燃料がまかなえます」

加えて、バイオガスといい、食品残滓やし尿などを発酵させてガス化し、それをコンロなどの火力にするシステムも、霜里農場では実践している。調理用のガスコンロから力強い炎が出るのを見ると、金子さんの計画に説得力を感じる。

家族や研修生などいつも大人数が集まっている霜里農場の未来、もうすこし視野を広げて小川町の未来、それから日本の未来。みなが幸せに暮らせる未来への思い入れが強くあるのだろう。

金子さんにとって重要な課題は、「みんなが不安なく生きていくこと」と言う。バイオエネルギーへの取り組みも、じつは核になる部分の考えかたは、最初に有機野菜づくりを始めたときの動機に近いように思える。牛の糞などを堆肥に使って草を育て、その草で牛を育てる循環農法について触れたが、こちらはエネルギーの循環だ。金子さんの中ではつながっている考えかたである。

「このシステムが出来たら、小川町の住人は自給自足で暮らしていけるんじゃないですか。これから確実に食とエネルギーが不足するともいわれるし、野菜づくりを含めて、生活すべてを自分たちでまかなえたら、こんなにすばらしいことはないと思います」
金子さんが農業に足を踏み入れたとき、「食べ物は待っていてもやってこない。誰かが作らなくてはいけない」という、ある種の使命感があったという。
金子さんはそこから進んで、循環のサイクルを作りだし、そしていま、エネルギー再生と、共存共栄のシステムづくりへ向かっている。
すべて農業の力を利用している。それがいかに大きいか。知らしめてくれるひとが、金子美登さんなのだ。

photo/Kentaro Kumon text/Fumio Ogawa

金子美登(Yoshinori Kaneko)

1948年、埼玉県生まれ。1971年、農林水産省の農業者大学校を第一期生として卒業。
すぐに有機農業に取り組む。現在、埼玉県小川町下里地区に「霜里農場」を開き、国内外の研修生とともに、
米、大豆、麦、野菜、酪農、養鶏などを手がける。小川町町議会議員。NPO法人全国有機農業推進協議会理事長。

写真家の眼

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