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独りよがりではないタマネギという作品を作りたい

栽培も販売も自分のフィルターを入れない

取材で各地の農村を訪れると、いつも不思議に思うことがあった。
それは、農家の後継者不足が報じられ、休耕田や耕作放棄地が増えている一方で、
新規就農者たちが、自分の田んぼや畑をなかなか借りることが出来ずに悩んでいる姿だった。
そんな矛盾した現状を切り拓く一つのロールモデルとも言えるのが
北海道の広大な土地でタマネギを栽培している中村さんの農家としての歩みなのだ。

chapter01

札幌から車で一時間余り走っていくと、地平線に向かって広がる一面のタマネギ畑が見えてきた。収穫を終えた広大な畑の上にポツンポツンとコンテナが置かれている様子は、SF映画のワンシーンのような光景だった。かつて原野だった土地を開墾し、区画整理して出来たのが、ここ新篠津村である。180万人が暮らす札幌への食糧自給地として、意欲ある農家が日々多様な農作物を育てており、同時に有機農業が根付いている地域でもある。

この土地で中村さんは38歳から農業を始めた。
中村さんは、大学卒業後、東京で大手酒造メーカーに就職した。
「若い社員にも大きな仕事を任せてくれるいい会社でした。ただ、もともと、モノ作りがしたくてメーカーに入ったんですが、配属されたのが経理部だった。それと、札幌の郊外出身だったので、やっぱり、自然に近しい暮らしがしたくなったんです。5年間勤めた後に、東京には向かない人間だと再認識して、北海道に戻ったんです」

北海道に戻り、地元企業で働く内に、転機が訪れた。北海道では有名なナチュラリスト・河村通夫氏と出会ったのだ。ラジオパーソナリティを務める傍ら、山林を開墾し、自宅をセルフビルドしたり、健康食品のプロデュースもしていた河村のもとへ仕事で通ううちに、「アシスタントにならないか」と打診されたのだ。
「平たく言えば、弟子入りですよ。そこで、自給自足の生活の手ほどきを受けた感じです。料理や建築にも造詣が深くて、色んな経験もさせてもらっていく中で、有機農法での野菜の自給栽培もしていました。そんな日々の中で、自分自身が農業がすごく好きなんだってことに気付いたんです」

モノ作りがしたくてメーカーに入ったように、自身の創造性を活かしたい気持ちと、自然に近しい暮らしを続けていきたいという思いを重ね合わせてみると、自分の進むべき道は農家だと思った。
「具体的な作物ではなく、農家をしたかった。土のそばにいたかったんです」

河村のもとを離れ、農家として独立しようと決めた。それが38歳の時だ。家には、妻と3人の子供がいた。農家になることが、ある意味自分の人生の理想に近づくことだとしても、家族を養っていかなければならない現実と渡り合っていかなければならない。簡単に言えば、すぐにでも飯が食える農家にならなければならないということだ。
ひとつアイデアがあった。そのアイデアに自分と家族のこれからを賭けようと思った。

chapter02

「やる気だけはあった。でもお金は全然なかった。農業って、土地、農機具、資材とかなりの金額がかかる資本産業なんです。それならば、農業生産法人に入社しようと。それも、後継者のいない所に入れば、ゆくゆくは自分が経営者となって引き継ぐことが出来るんじゃないかと考えたんです」
一見、都合の良い話に聞こえるかしれないが、農業界全体の構造と問題点を突いた突破口として、新規就農を希望している人たちにとっても、この手法は非常に参考になるのではないだろうか。早速、北海道農業会議へ行き、求人している農業生産法人のリストを手に入れ、その中から後継者がいないところを探した。すると、果樹農家とタマネギ農家の二軒の募集があった。中でもタマネギ農家は有機農業に取り組んでいた。河村のところでも有機農業を実践していたし、慣行農法と有機農業では、明らかに有機農業に取り組む方が心に違和感がなかった。だから、新篠津のタマネギ農家のもとへ行くことを決めた。

「先代は実力のある農家でした。もともとは米農家だったんだけど、いきなりスパッと全部タマネギに変えて、2001年には有機JASも取得していました。堆肥作りから販路の確保まで、すべてを独力でするような篤農家でした。ただ、そういう人だったので、農作業を他人に任せられない人だったんです」
師匠に農業を学びながら、徐々に引き継いでいければ。そんな中村さんの思いは打ち砕かれることになる。

「具体的な農作業を全くやらせてもらえないんです。毎日毎日、草取りと配達だけ。肥料まきも、防除も、トラクターも何もやらせてくれなかった。それが、結局7〜8年間続きました」
予想していなかった事態だった。後継者不足とか有機農業などと、世話になる農家さんの条件は読めても、人柄や相性は求人リストからは読み取れない。だが、中村さんは農家になると決めた時点で、絶対に後には引かないと覚悟を決めていた。

「ここが自分の人生にとって最終地点だろうと思ってました。だから、教えてくれないなら盗むしかない。例えば、配達で軽トラに乗ってる時も、畑を横目で見ては、紐の結び方一つから、肥料の撒き方まで全てを盗みました。盗むというよりは、いつも身体中の毛穴まで全開にして、何でも吸収していったという感じでした」

面と向かって「お前は農家に向いてないから辞めろ」と、何回も言われた。それでも、辞めなかった。農家になるんだという思いだけは手放せなかった。
「人生で最高に気合が入っていたと思います」

すると、農業の神様はチャンスをくれた。先代が骨折の為、長期入院することになったのだ。
「初めての実戦でしたが、『それ見たことか』と言われないように、何が何でもやってやると思って。必死でタマネギを育てました」

当たり前のタマネギを作りたい

chapter03

「毎週、病院に行っては、逐一作業報告をして、その後の作業のやり方も教わりました。もちろん、畑の土が出来ていることや堆肥作りなども引き継いでいるわけですから、自分一人の力で成し遂げたとは言えません」 それでも先代のピンチを救ったのは紛れも無い事実だった。そして、平成20年に先代から社長の座を譲られた。45歳になっていた。

「自分でやることになって考えたのは、とにかく自分のフィルターを入れないでタマネギを育てようということでした。具体的に言えば、もっと大きく育てたいとか、もっとたくさん穫りたいというような欲求をタマネギに押し付けないってことです」

先代がタマネギを大きく育てるために使っていた液肥などの資材をひとつづつ削いで、栽培方法をどんどんシンプルにしていった。
「先代と私のタマネギでは味が違うと思う。それは、先代がタマネギを大きくしたいって人だったから。それは「自分がこうしたい」ってことで、私は「自分が」じゃなく、「タマネギがどう育ちたいか」を考えてるから。だって、いくら有機農業とはいえ、ここに(といって畑を指す)タマネギだけが生えてるって、自然界の法則ではありえないじゃないですか」
取材中、中村さんは、何度も「当たり前のタマネギを作りたい」と語った。

「この畑が自分の農地だからといって、土地に辛い思いをさせて自分だけいい思いをすることはできない。長いスパンで見れば、この畑だって、地球からの借り物だから。だから、本当は自然界とまるっきり同じ状況にすべきなのかもしれない。ところが、この雑草一つから千の種が落ちて、あっという間にタマネギを育てているんだか、草むらなんだか分からなくなる。農家として止むを得ず草を取ってる」

農家として経済的成功だけを考えれば農薬や化学肥料を使ったほうが効率はいい。だが、「それだと、お天道様に顔向け出来ない」からと、結局は今も毎日のように草取りをしている。
「草取りが楽しいわけないですよ。ニコニコなんてしていられない。でも、こうして毎日タマネギのそばにいて、環境を整えてあげる。そこからは『タマネギさん、頑張って育ちたいように育ってください』と思っている。タマネギが本来のリズムで育つことで出来るのが、私の思う当たり前のタマネギなんです」

農家になりたいと思った時に、特にタマネギにこだわりがあったわけではない。ただ、夢中でタマネギを追いかけているだけだった。地元以外からの、それも40代目前の就農ということもあって、愚痴も弱音も吐かず、人の何倍もの努力を自らに課してきた。すると、そんな中村さんの姿勢に共鳴する人たちが現れ始めた。
「もともと、先代の時に配達を担当していてその担当者を知っていたということもあったんですが、ありがたいことに販売に関しては、先方からお話をいただけて、どんどん増えていったんです」
注文は増え続け、新しく畑も買った。それでも捌ききれない量の注文が入るようになった。これも中村さん流の自分のフィルターを入れないやり方が身を結んだことだ。

chapter04

栽培に関しての主語はタマネギだが、販売の時も販売店の担当者などの要望に耳を傾け、お互いに信頼関係を築くことこそが重要だという。
「人様に出すものだから、自信があるもの以外は出さない。だから、自然と選果基準も厳しくなる。それと、例えば、相場が3000円の時には2000円で出す。その代わり、相場1000円の時でも1400円で納めさせてもらう。そうやって長年の信頼と人間関係を作ってこれたことで、売り先に困ることがないんです。ありがたいですよ」

現在では、地域の農家のタマネギを集約して取り扱ってもいる。僅かな手数料は箱代と運送費で消えてしまうが、それでも自分だけでなく、新篠津の農家が幸せになれるならと尽力を惜しまない。そんな中村さんの手腕を頼り、中村さんにタマネギを預ける農家は増え続け、今では年間2億2千万円もの売上高を上げるまでになった。振り返れば、入社当時と比べると7倍、新篠津一の売上高だ。

「小規模農家やCSA(Community Supported Agricultureの略。消費者や販売者が連携し生産者を支援する農業形態)も一農家としてはありだと思うんです。でも、それだけでは、地元の農家の幸せも実現できないし、あるいは札幌という巨大都市の食糧自給圏としての機能も果たせない」
タマネギは本州産半分、北海道産半分と言われ、特に冬場の時期は日本全国に出回るタマネギは全て北海道産になるという。取材時にも全国展開する大手スーパーのバイヤーが中村さんを訪ねてきていた。少しでも良いタマネギをと探して、ここへ来たのだという。

「我々、スーパーマーケットというのは大量販売をしなくてはなりません。ただ、有機農産物は量も限られていたり、高額だったりと、扱いづらかったんですが、中村さんは一緒にタッグを組んでやっていただける」
そういうバイヤーの言葉を聞いて、中村さんはこう続けた。
「作品を作りたいと思っている。ただし、独りよがりな作品じゃしょうがない。『自分はこれだけこだわって作ってます』とか『こんなに苦労しました』という生産者のこだわりなんて、食べる人にとっては関係ないことなんだと思う。それは、主語が自分になっている。私は、主語を相手にする。その上で、『中村のタマネギを食べたい』って思ってくれる人がいることが、自分にとっての喜びになる。私の作品を賞味するのはあなたなんです」

取材を終えて、しばらくたったある日、都内にあるその大手スーパーに行くと、そこに中村さんのタマネギがあった。値段もそれほど高くない。本当に、そこに、ごくごく当たり前の顔をして中村さんのタマネギはいた。
「当たり前のタマネギは、当たり前に美味しくて、当たり前に体に良い。だから当たり前に、安心で安全なんです」タマネギをじっと見ていたら、タマネギの向こうからそう話しかけてくる中村さんの声が確かに聞こえた。

後継者不在の農業生産法人を引き継ぎ、有機農業では珍しい大規模農家としての体勢を固め、北海道から遠く離れた東京にまで手頃な値段で有機野菜を届ける。中村さんの手法が当たり前になる日が待ち遠しい。

photo/Kentaro Kumon text/Takashi Ogura

中村好伸(Yoshinobu Nakamura)

1964年、北海道札幌市生まれ。サラリーマンやナチュラリスト・河村通夫氏のアシスタントなどを経て、2002年の4月より、北海道新篠津村の「佐藤農産」に就農研修に入る。2008年、「佐藤農産」代表就任。2013年「新篠津つちから農場株式会社」「新篠津つちから販売株式会社」設立。2015年からは、地元農協の理事も務めている。

写真家の眼

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