SHARE THE LOVE

有機農業という種を蒔き続ける体現者

農業の一番根本は、安心で安全な食べるものを作ること。

有機農業に関わるようになって40年。
国内における有機農業の礎をコツコツと築いてきた。
石油資源のゴミを減らすための農業技術も確立した。
自家採種にいち早く取り組み、風土に合った作物を育てると
それは、全国で展開される自家採種運動にまで広がった。
有機農業を志す人たちにとって、ひとつの理想形ともいえる農業と暮らしを、
林さんはどうやって作ってきたのだろうか。

chapter01

林さんが暮らす、千葉県佐倉市は、東京のベッドタウンでありながら、城下町の情緒と面影を残し、今なお、古くから営みを続ける農家も数多い、昔ながらの農村風景も広がる土地だ。ここで、代々農家を続けてきた家の長男として林さんは生まれた。
お宅にお邪魔すると、軒先には、自家採種したばかりの大根の種や、種採り用に刈り取ったニンジンの花傘が干されている。
「このニンジンは、一昨日、種を落としたものですが、こうして乾燥させておいて最後にふるいにかけるんです。大根の種はこれだけで10年は使えるくらいの量ですね。ウチではこうして70種くらいの作物は自家採種しています」
自家採種とは、栽培した野菜から種を直接採ることで、林さんの農業におけるこだわりのひとつだ。
「今の種苗会社の種は農薬や化学肥料を使うことを前提に品種改良されていますし、半数以上の種は農薬で消毒されている。自家採種すれば、味わいと安全性にこだわった栽培が出来るんです」
そう言うと、自家採種した種を保存している冷凍庫に案内してくれた。

「冷凍すると種は20年以上保ちます。冷蔵庫で保管しても5年間は保つ。台風とか予測できない天災が起きたとしても、こうしてストックしておけば栽培は続けていけますから」
冷凍庫の中には、インゲンや小松菜、チンゲン菜やルッコラやスイカなどが、それぞれ瓶に詰められ保管されていた。これまで取材してきた先駆者の中でも、林さんの自家採種へのこだわりは群を抜いている。一体、どんなきっかけから林さんは自家採種をするようになったのだろう。

「初めて種に関心を持ったのは、今から40年くらい前になります」
冒頭でも触れたように、林さんは代々農家の家系に生まれた。父は地域でも篤農家として知られる存在だった。
「耕運機などの機材を取り入れるのも早く、常に時代の先駆的な取り組みをしていました。だから、農薬や化学肥料が開発されると、それも積極的に取り入れた農業をしていました」
観光バスに乗って各地から見学に来る農家が絶えないほど、父の農業は賞賛されていた。そんな父の後を継ぐべく、大学では農学部に進んだ。そこで、林さんは有機農業と出会った。
「まだ、有機農業という言葉はなかったですが、農薬を使わない農業があることを初めて知ったんです。福岡正信さんの『わら一本の革命』が出版されて話題を呼んだのもその頃です」
大学生活で、新しい農業の息吹を感じた林さんは、次第に父がしている農業へ違和感を覚えるようになった。

chapter02

「父は大和芋をメインにやっていました。その頃から土壌消毒剤、いわゆる農薬が使われるようになった。地面に打ち込むと、土の中が無菌状態になって、連作が出来るようになったんです」
「これは違う」と感じたのは、出荷作業を手伝っている時だった。
「大和芋っていうのは、出荷をするときに漂白するんです。保存用の冷蔵庫から出して、ざっと泥を落として、塩素の中に半日浸けると、芋の表面が根っこの黒い点まで真っ白になるんですね。で、塩素を流して、段ボールに詰めて出荷するんです。
要するに見栄えが良くなる。それが納得いかないというか、こんな農業って何なんだろう?っていう疑問が湧いてきたんです」
百歩譲って、作物を育てるために農薬を使うのなら仕方ないとしても、せっかく育った作物の見栄えを良くして高く売るために薬を使うことは受け入れられなかった。

「農業は食べるものを生産する仕事です。美味しいとか、新鮮とか、栄養価があるとか、色んな要素があります。でも、どうも父がしている農業には一番根本の安心・安全がないなと感じたんです」
父と農業をしてから3年目だった。自分らしい農業を身に付けたいと決意し、家を出た。頭に浮かんでいたのは、大学時代に、その存在を知った金子美登さんだった。
「金子さんも有機農業を始めて5年目くらいだったと思います。トラクターもなくて、耕運機くらいがあっただけでした。もし、断られたとしても、毎日車で寝起きをして、へばりついてでも研修を受けようという心算でしたが、『じゃあ、一緒に勉強しましょう』と言って、一年間、住み込みでの研修を受け入れてくれたんです」
林さんが種へ強い関心を寄せるようになったのもこの頃のことだ。

「当時から、種苗会社の種は農薬をかけることが前提となっていました。それならば代々農家の家系に伝わっている種を持ち寄ろうと、金子さんたちの発案で種苗交換会を開いたんです。参加したのは13名でした。みんな若くて、希望に燃えていました。あそこから、今の私は始まったし、あの種苗交換会が全国まで広がった。その結果が、現在の自家採種運動につながっているんです」
金子さんの下での研修を続ける内に、「有機農業をやりたい」という思いは「これからは有機農業しかない」という確信に変わった。

かっこよく言えば、有機農業は生き様

chapter03

実家に戻ると、驚いたことに、父からは「好きな所を使って、好きなようにやればいい」と言われた。息子が始めようとしている農業に、父は新たな時代を見据えていたのかもしれない。

「好きなところを使ってやれって言われたんですが、今まで堆肥も入っていない畑ですから、当然、うまく出来ないわけですよ。堆肥っていうのは、入れた年に効くのが3割。2年目が3割。3年めが2割って言われていて、最低でも5年くらいしないと土が出来ないわけですよね。もちろん、農業技術も低かったっていうのもあります。だから、最初はひどい状態でした。虫食い、病気だらけで、あの時期が一番大変というか、苦しい時期でした」

とにかく痩せた土を健康にすることから始めた。千葉の名産品である落花生の収穫残渣をもらってきて土に入れたり、稲わらを集めて堆肥にしたり。漁船にへばりついている海藻がミネラル豊富だと聞けば、あちこちの港へ行った。
「試行錯誤しながら土作りをしました。それがだんだん出来てくると同時に、害虫も減っていった。それまでは農薬で8〜9割方を殺してきたわけですが、私は農薬を使わないから、異常に害虫が出てくるわけです。ただ、今度は害虫を食べてくれる天敵の虫もたくさん出てくるようになったんです。そうやって、天敵と害虫のバランスが取れてくるに従って、だんだんと作物も穫れるようになってきた」

そんな林さんを支えてくれたのは、自ら一軒一軒歩いて回って獲得したお客さん達だった。
「当時は一箱1000円でした。『無農薬で野菜を作っているので、食べてくれませんか』って言って、お客さんになってもらうわけです。消費者と直接結びつく“提携”という手法ですね。今でも、その当時からずっとお付き合いが続いているお客さんもいます」

そして、有機農業に取り組んで5年目。ようやく、土も良くなり、農家として安定し始めた頃、結婚した。妻の初枝さんは、実家が東京の清瀬で農家をしており、栄養士の資格も持っていた。 初枝さんの有機農業との出会いは、環境問題が入り口だった。
「スーパーでモノが足元から頭の高さまで溢れていますよね。そういう社会にも疑問ていうか、不安というか。飽食の中の飢餓みたいなことを漠然と感じていました。日本有機農業研究会の皆さんと出会って衝撃を受けました。私と同じ考えをしている人がいるということで」(初枝さん)
「結婚は大きかったです。1+1は2じゃないんです。3とか4になるんです」
初枝さんという同志を得たことで、林さんの農業はより暮らしに密着していくようになる。
「野菜セットに、ミョウガとか青じそとかゆずとか、料理する人が喜ぶような、細々したものを入れるようにしたり、ルッコラなんかは、私が提案して、野菜セットに入るようになりました。ルッコラって冬になると辛味や苦味が薄れて、茹でても野菜炒めにしても旨味に変わるんです。ルッコラの野菜炒めやおひたしなんてあまり聞いたことないでしょう。美味しいんですよ。そういうことは、本には書いてないので、自分で、ここで体験していく内に身につけました」(初枝さん)

chapter04

私たちが取材をしている時に、一組のお客さんが、直接野菜を受け取りにやって来た。
「ここのトマトは皮が厚いから焼いても型崩れしなくて美味しく食べられるのよね」など、ひとしきり初枝さんと野菜の調理法などを話していった。トマトが好評でしたねと聞くと、返ってきたのは意外な答えだった。
「トマトって、無農薬ではとても難しいんです。ウチで作物を作る場合、作りやすさと美味しさはかなり重要視するんですが、トマトに限っては美味しさではなくて、とにかく強いもの。病気に強い。それ一点のみなんです。
なぜかといえば、ハウスや雨よけなどを使わずに、露地栽培にこだわっているからです。それは、石油製品を極力使わないようにして、地球規模で石油のゴミを減らしたいからなんです」
この初枝さんの話を聞いて、林さんの農業の本質に触れた気がした。

その本質とは「継承」だ。
目の前にある大地をなるべくそのままの状態で次の世代へ継承するために、石油資源を使わない農法を選ぶ。そして、安心で安全な野菜を受け継ぐために自家採種をする。

2004年、ある調査で林さんの農園の近くで遺伝子組み換えの菜種が発見された。
「原因は、トラックの輸送中に種がこぼれたからです。これはえらい問題だと思いました。もし、その菜種で受粉したミツバチがウチに飛んできたとしたら、ウチの種に遺伝子組み換えの種が入ってしまう」

危機感を覚えた林さんは、有機農業の仲間たちと配送ルートを調べて、こぼれ種で花が咲きそうな菜種を全部手で一本一本引き抜いた。
「あの時から、さらに種の安全へのこだわりが強くなりました。それに、自家採種をすると、スイカを例にすると、種の数を少なくするとか、皮を薄くするとか、要は種採りをする人間の個性でそれまでにはなかった品種も生み出すことが出来る。それはもう、世界中で私しか持っていない品種じゃないですか。そこが面白い」

自家採種の醍醐味を林さんが語ると、初枝さんが自家採種の意義を語ってくれた。
「私が自家採種について思うことは、安堵感。その一言に尽きます。この種を次世代に繋げられる安心感というのは満ち足りた感覚があるんです」そして、こう続ける。
「私にとって、有機農業とは単なる農法の一つではないんです。もっと大きな生活全体、かっこよく言うと生き様かしら。この歳になればそのくらい言ってもいいかな。だから、お客様も単なる生産者とお客様という関係ではなくて、同じ価値観を共有している人たちなので理解し合えてきているのだと思います」(初枝さん)

今でも、どんなに忙しくても近隣への配達は、林さんが自ら運転し、一軒、一軒に野菜を届け、顔の見える付き合いを大切にしている。 林さんも初枝さんも声高に自らを主張することはない。だが、およそ40年もの長い時間、ひたすらコツコツと自分が信じる農業を続けてきた。

自らの人生を有機農業に捧げ、有機農業という種を蒔き続け、歩んできた道のりそのもので有機農業を体現してきた。そして、今では、毎年、全国から若く希望に燃える研修生たちが林農園の門を叩く。畑で熱心に作業をしている研修生たちの姿を見ていると、それは、40年前の林さん自身の姿にも見えた。

photo/Kentaro Kumon text/Takashi Ogura

林重孝(Hayashi shigenori)

1954年、千葉県佐倉市生まれ。大学卒業後、家業の農家を継ぐが、近代農業に疑問を持ち、79年、埼玉県小川町の霜里農場(金子美登氏)にて一年間の研修を受けた後、有機農業に取り組む。栄養士の資格を持つ妻とともに、農産加工にも取り組んでいる。
NPO法人日本有機農業研究会副理事長。

写真家の眼

BACK TO TOP