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有機ブドウ栽培のたのもしい後継者

「農業は生命産業だ」と言った父その言葉を胸に刻んでいる

難しいといわれていたブドウの有機栽培の第一人者。
父は牧丘町に巨峰栽培を定着させ、さらに有機栽培にも成功した。
後を継ぐ澤登(さわのぼり)早苗さんは、「ブドウっておもしろい」と語る。
同時に、次のステップを考えるのが自分の仕事、とも。
第2世代がさぐる、有機農業の未来はどこにあるのだろうか。

chapter01

「私はブドウと一緒に育てられたようなものです」
そう語る、澤登早苗さんは、山梨・牧丘町の「フルーツグロアー澤登(さわのぼり)」で、ブドウとキウイフルーツの有機栽培を手がけている。

ブドウ栽培は父、澤登芳(かおる)さんが始めたもので、小さなときからブドウ作りを見てきた澤登さんは後継者。お父さんの事業を引き継いでいる。
農家の多くが直面している後継ぎ問題を乗りこえ、次世代へ向けて新たなスタートを切ったところだ。

フルーツグロアー澤登へ行くには、クルマだと中央高速・勝沼インターチェンジから、観光客でにぎわうブドウ園の数かずを通りすぎる。そして丘を登っていった中牧地区。そこにある。
澤登さんの畑あたりから一帯を見下ろすと、大地を覆い尽くすようにブドウ畑が広がっている。

牧丘町一帯は、かつては、養蚕と質の高いコンニャクイモが主要産物だった。しかし、ときの政府が貿易政策を見直したため、生糸の輸入自由化が進み価格は暴落。いっぽう、コンニャクイモは競合が増え市場で苦戦するように。
そこで生き残りのための打開策が必要になったとき、澤登さんの父がブドウ栽培を定着させたのだった。

「ブドウ、それも人気の巨峰は換金性が高い、つまり収益があがる、と父は周囲を説き伏せ、試行錯誤もあったようですが、昭和30年代という早い時期から様々な取り組みをおこない、主要な産物へと成長させるのに成功したんですね」
ブドウ畑で、澤登さんは少しだけ歴史を振り返る。

いまは冒頭に書いたとおり、ブドウの有機栽培の第一人者。これもお父さんから引き継いだ。
「畑には農薬もまかないし、化学肥料もあげません。見てください。ブドウの樹の幹、細いでしょう。こういう木がいい実をつけるんですよ。肥料をあげすぎると木ばかりに栄養がいっちゃう」
ブドウの幹を撫でながら嬉しそうな顔を見せてくれる。

chapter02

「農薬をまかないから微生物が育って、土はいつもふかふか。こういう土がブドウにはいいんです」
澤登さんは、ブドウの葉が直射日光をさえぎって、やわらかな光線を作ってくれる畑を歩き回り、出荷時期が来たブドウを見つけると切り取っていく。

一房ずつ、自分の眼で確認して、出荷の箱詰めにいたるまで手作業。
ブドウの害虫を食べる天敵のすみかになり、また土にすきこめば緑肥にもなるコンパニオンプランツ=雑草が足下に生い茂るなか、難しいといわれる出荷のための選定作業をこなしていく。

父の芳(かおる)さんは、農家の七男。長男でなかったが、大学卒業後、家庭の事情で実家に戻り農業を継がなければならないことが決まると、育種家で東京国立で農業科学化研究所を主宰していた兄とブドウ栽培に取り組んだ。
巨峰栽培の事業が軌道にのったあと、有機に転換。むずかしい、無理じゃないか、と言われていた、農薬不使用のブドウ栽培をみごとにやってのけた。

農学を専門に学んだわけではないのにブドウ栽培に成功する才覚の持ち主だったお父さん。それだけに、ブドウの有機栽培を成功させる方策でも、画期的なアイディアを実現した。
それが、独自の構造をもった栽培施設「サイドレスハウス」だ。側面を覆わない屋根だけというユニークな構造を特徴としている。空気の対流がよく、湿度が低い気候を好むブドウの生育を助ける装置だ。

「父からは、農業の極意はブドウが持っているものをどう引き出すかだよ、と聞いていました。ブドウの本来の性質をねじまげて育てれば、農薬や化学肥料が必要になる、というのも父の考え。自然なかたちで育ててやれば、ブドウが本来持っているいいものを、うまく引き出すことが出来る。つまりおいしいブドウが農薬不使用でつくれる。それを父は実証してきたんです」

第2世代の仕事は“新しい道”を探すこと

chapter03

澤登さんのブドウ畑には、巨峰やマスカットなど、よく知られている品種はない。かわって、オリンピアやブラックオリンピア、サフォークレッド、ピアレス、そして有機ワインを作る小公子……。

「ブドウは品種がいろいろあって、本当に楽しいですよ」
父が育てていた品種もあるし、澤登さんが新たに取り組んでいる品種もある。たとえば、牧3号、牧5号、それに父の名前からとったカオル(仮称)といったブドウ。これらは澤登さんが父から引き継いで育て始めた。

でも、と澤登さんは言う。
「ずっと順風満帆だったわけではありません。苦労して育てたブドウを出荷したら、“腐っている”と言われてクレームの電話がかかってきたことがありました。黄色いって。ブドウは熟すと黄金色になることが知られていなかったんです」

ブドウにはいろいろな“思い込み”がつきまとう。たとえば、粒が大きくなくてはいけない、粒がぎっしりと詰まっていないといけない、露がかえって袋を漏らしてはいてはいけない、といった小売店の決まりに苦労してきたと、澤登さんは語る。

「最初は悩みました。私はブドウと育ったといっても、出荷や販売の苦労まで知らなかったし。父は私を跡継ぎだと言いながら、大学進学の際には、英文科でも出て、ふつうの勤めをすればいいと思っていたフシがありました。だから真剣には手伝っていませんでした」

東京農工大学卒業後、同大大学院在学中にニュージーランドへ留学して農業の研究を続け、キウイフルーツに取り組んだ澤登さん。大学で教鞭をとり、農業を教えるようになった。英文科から一般の企業へ、でなく、自分のルーツへ引き寄せられるようになった。

「私は父から教わったブドウ栽培に誇りを持っています。なので、無理なことを押しつけられたら、私たちのブドウが好きだと言ってくれている人の存在を思い出すんです」
澤登さんはそう言う。

「農業は生命産業だと父は言っていたし、私もずっとその言葉を大切にしています。それなのに農薬で病気になるなんて、本末転倒ですよね。うちのブドウだから食べられるという、農薬アレルギーに苦しむお客さんからいただいた感謝の言葉が励みになるし、卸でも、私が作ったブドウをそのまま受け入れてくれる、理解あるところと知り合うようになりました」

chapter04

最近、お父さんが入院した。
澤登さんは毎日病院にブドウを持っていき、食べてもらって感想を尋ねる。時としてお父さんはあまり喋らないが、手を重ね合っているだけでも言いたいことがわかる気がする、と澤登さんは語る。

お父さんに、澤登さんがブドウ作りを継ぐと伝えたときのことをどう思ったか訊ねると、「嬉しかった」と涙をにじませながら答えてくれた。
周囲も感動する場面だ。

ただし、澤登さんはまったく同じことをやるつもりはない、と言う。
「父の世代の仕事は、ブドウづくりを定着させることでした。有機ブドウ栽培にも成功しました。第2世代にあたる私は、その基盤の上で、農家にとって未来につながる道を探すのが仕事だと思っています」

たとえば、澤登さんは、キウイフルーツのジャムや、小公子というブドウを使ったジュース、さらにワインを作るのに熱心だ。これらにもファンが多い。

「お米なら政府による全量買い上げもありましたが、フルーツはそうはいきません。今年(2014年)は天候がいまひとつよくなかったし、以前は突然の雹(ひょう)でキウイフルーツが大打撃を受けたこともありました。世間では六次産業化といいますが、収穫依存型でなく、薬効成分まで含めて、フルーツの二次利用を、いろいろ考えていく必要もあるでしょうね」

農業人口減少がとりざたされる昨今、若い後継者が多かった牧丘町にもその波は押し寄せ始めているという。
しかし、ようやくというべきか、農薬を使わない、澤登さんのブドウ栽培のフォロワーも出はじめたそうだ。

最近、これまでの勤務先を退職して農業をいっしょにやってくれるようになった夫の芳英さんとともに、澤登さんはブドウとキウイフルーツの栽培に余念がない。そこから牧丘町の農業を新しいステージへと持ち上げてくれる日が期待できる。新しい時代が近づいている。

photo/Kentaro Kumon text/Fumio Ogawa

【編集部後記】
この取材が行われたあと、
2014年10月8日 に、
澤登芳さんが他界なさいました。
この場を借りて謹んでご冥福をお祈りします。

澤登早苗(Sanae Sawanobori)

1959年、山梨県牧丘町生まれ。81年、東京農工大学農学部農学科卒業。82年、文部省奨学生としてニュージーランド・マッセイ大学大学院に留学、ディプロマコース修了。90年、東京農工大学大学院連合農学研究科修了。農学博士。専門は農学(園芸学)。恵泉女学園大学・大学院教授、日本有機農業学会会長、やまなし有機農業連絡会議代表も務める。

写真家の眼

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