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離島というハンデをバネに島に眠る宝を六次産業化で蘇らせる

有機農業というのは努力を裏切らない正直な仕事

有機農業とは、畑とそれを取り巻く自然環境の力を最大限に生かす農法であるが
福留さんが暮らす鹿児島県徳之島は有機農業には向かない土地と言われてきた。
一年中雑草が伸び、土分解が早く肥えた土作りが難しい亜熱帯性気候。
何より、新鮮な作物を届けるのが難しい離島という立地。
困難を乗り越えて育て上げた作物をどうやって活かすのか。
悪条件の中から福留さんが産み出したのは、島だからこそ出来る六次化産業だった。

chapter01

鹿児島から南へおよそ500km。エメラルド色の海を眺めながら小型ジェット機は徳之島の空港に到着した。タラップから降りると、南国特有のねっとりとした湿度に包まれる。サトウキビ畑と亜熱帯性の色鮮やかな花に目を奪われながら、福留さんの畑へと車を走らせた。

すると、そこで待っていたのは、ニンニク畑の土の上を歩く、赤い長靴。今日は、従業員総出でニンニクの収穫だ。一般的な農家が、黒やグレーといった無骨な色の作業着姿をしているのに対して、福留さんの畑で働く女性たちは赤やピンクといった鮮やかな色を身につけている人が多い。もちろん、福留さんもそうだ。現に、畑へ出る直前にも、「私のピンクのタオルがない」と言って、家の中を探し回っていた。

福留ケイ子さんは、今年で71歳。マンゴーやグアバ、タンカンなどの果樹やニンニクなどを栽培している。生まれ育った鹿児島県の徳之島で、初の有機JAS認定農家であり、島の農業女性部初代部長も務めた、いわば島の女性たちにとって、女手ひとつで稼げる農業の成功モデルを体現した第一人者である。しかも、平成25年には黄綬褒章まで受章。福留さんの名前は島どころか、全国の農業関係者まで広く知れ渡り、各地からの視察が後を絶たない。そんな、我々のような一般の消費者にとって雲の上の存在のような人が、ピンクのタオル一枚を探し回っている姿を見て、一気に親近感を持ってしまった。

福留さんは、今も暮らしている徳之島・伊仙町で生まれた。中学卒業と同時に兵庫県神戸市でバスガイドになった。ところが、父の容態が急変し、やむなく帰郷。19歳で結婚。嫁いだ先は米農家だった。
「結婚した時は、農家なんて大嫌いだった。アンポンタンだったね。『マニキュア剥がれるから嫌だ』なんて言ってたの(笑)」

洋裁学校で学んだ技術を活かして洋裁教室の講師をしたりもしたが、島では女性が稼げる手段がほとんどなかった。ふたりの子供を授かると、何とかしっかりとした教育を与えたいと思うようになり、止む無くサトウキビ畑で働くようになる。
「農に打ち込むには、手も汚くなるし、色も黒くなる。でもね、子供たちに学問させたかったから、もうシミとかも二の次、三の次になった。夜中の12時頃まで重たいサトウキビを担いだし、授業参観だってキビ畑から泥だらけの姿のまま行ってました」

だが、サトウキビの仕事は安定した収入にはなるが、値段が決められているため生活は苦しいままだった。
「貧しかったから、『野菜は買わない、味噌は買わない』というような自給運動というのかな、作れるものは自分の手で作るという生活をしたの。でも、あの時の経験が、今の私の畑のやり方にすごく活きている

chapter02

「このハウスの中に入ってみて。ものすごく臭いから」といってマンゴーのハウスに案内された。
臭いの元は、天井からいくつも吊るされたバケツ。そこに入っている魚のアラが腐っていて、腐臭がハウス内を漂っているのだ。これは、通常の作物と異なり、ハウスで育てるマンゴーの受粉をハエにさせるためだ。
ミツバチはハウス内の熱に耐えかねて死んでしまうため、あえてアラを腐らせウジを湧かせ、ハエを産ませる。マンゴー農家にとっては、『ハエを上手く産ませられる人が、マンゴー作りも上手い』というのが、常識だそうだ。

「こういうやり方ひとつを見ても、島の人からは『ハエで金儲けしてる』なんて言われたよ。それと、足下を見て。ニンニクの葉とかいろんな草を敷き詰めてるでしょ。農薬とか化学肥料を使わないで土を育てるためには、こうやって、収穫しても使わない草や葉っぱを使って緑肥を作っているの。だから、『あいつはゴミも金にする』とまで言われたよ。でもね、私は、自給運動で学んだことが、『捨てない』で『使う』ことだったの。そのことに新しい価値を教えてくれたのが、名古屋から来た青年だった」

まだ、サトウキビ畑で毎日夜中まで必死で働いていた頃のこと。大手材木会社でのコンピュータープログラマーという仕事に疲れ果てた奥田隆一さんという青年が、癒しを求めて徳之島へやってきた。島の人たちは「都会から来た人なんて」と相手にしなかったが、福留さんは違った。
「奥田さんがサトウキビ刈りのアルバイトで畑に来たの。休憩でお茶を飲みながら色んな話をするようになった。最初は絵画や小説の話とか。それで、いつだったか『有機農業をしませんか』って言われたの。ところが、当時の私は、『地上で農薬をかけたって土の中に作物があるんだったら問題ないじゃない』なんて思ってた。馬鹿だった。あそこから、私の人生は変わった」

『命を育むものなんだから、土を汚してはいけない』そういう奥田さんの言葉に押されて、まずは家族のための自給用の作物としてジャガイモを、それから子供の頃から大好きだった花を有機農法で育て始めた。
「まず、花で有機の力を感じた。花の色、幹の太さを見て、有機の力を知った。ジャガイモもまるで味が違ったの。最初の一歩が小さな鉢の世界だったからこそ、私でも作れたし、実感することができたのね。あれが、広い畑を持って、そこに立っていたら目覚めることは出来なかったと思う」

そんな折、県の普及センターから米の代わりに果樹を栽培することを勧められた。福留さんは、思い切って何代も続いた田んぼを果樹園にすることを決めた。それも有機農業でやると言うと、普及センターの職員は面食らい『有機農業なんてとんでもない』と言った。周囲の人たちからも『馬鹿なことはやめろ』と猛反対にあった。

美しいものへの舌の感覚を研ぎ澄ます

chapter03

「試しに、ビワとタンカンを植えた。そうしたら、庭先のビワやタンカンが実によく出来たわけ。あれで自信がついた。ところがね、それで畑をやるとなったら大変だった。だって、ここは一年中青草が伸びる気候だもん。湿度も高いし、有機には不向きなのよ。そんなこと知らなかったから。毎日、雑草との闘い。寝てても夢に草山が出てきた。それで円形脱毛症になったの。

でもね、不思議と苦しいなんて一度も思わなかった。油かす、米ぬか、魚カスとか、自然体のいいものを土に入れて、畑を微生物がたくさん成長できる場所に作り上げていく。それがいい作物を育てる土になる。ニンジンの病気が流行った時も、ウチのニンジンは大丈夫だった。これは体験したから分かる。とにかく夢中だった。今みたいに、国からの補助金なんてものもなかったから、必要な資材は自分で出すわけ。だから、後には引けないの。身銭を切ってるからこそ、夜中まで働けるのよ」

福留さんの口調が一気に熱を帯びた。昨今の助成金ブームとまで言えるような、国の様々な保護政策を頼りに新規事業を起こす潮流にもどかしさを感じているようだ。
「気合いが違うのよ。私のやり方を馬鹿にするようなことを言われたこともあるけど、そんな時は『私より10倍くらい広い面積の畑をしてる人でも、どこに私と同じように5人も6人も雇用している人間がおる?いるなら連れて来なさい!』って言ってやるの(笑)」

チャーミングなおばあちゃんといった印象は、まるで海賊船の女船長に謁見しているかのように変わった。それは、男たちを相手に一歩も引かない肝っ玉の強さだけでなく、伊仙町の集落に暮らす女性たちに仕事を通してお金とやりがいをもたらしているという気概に充ちているからだ。
「だって、哀しいじゃない。女だからって稼げないなんて。だから、私は有機農業を始めてから、自分より年上のお姉さんたち、それも夫と死別したとか色んな事情で働かなきゃいけない女性を優先して働いてもらうようにしたの。中には90歳近くまで働いてくれたお姉さんもいたよ。もっとも、今では私が一番年上になっちゃったけどね(笑)。

そうして多くの女性と一緒に働くことで、大きなことができるようになる。私ひとりで出来ることなんてたかが知れてる。例えば、100万円の給料を渡したら120万円の仕事をしてもらう。人と一緒に働くということはそういうことでしょ。あそこにいるお姉さんね、大島紬の名織り手だったの。旦那さんの家庭の事情で伊仙に越してきたけど、仕事がなかった。それで、ウチで働いてもらうようになって、もう22年よ。私の右腕。あの人がいなければ、ウチは成り立たない」

chapter04

集落の女性たちを年間を通して雇用できるような作物やシステムを作りたい。そう考え、アイデアを練り、最初に作ったのがグアバ茶だった。
「六次産業なんて言葉もなかったよ。有機を始めてから東京や大阪なんかからいっぱい消費者グループの人たちが来るようになったんだけど、ある時『体質を変えるには、グアバが一番いい』って話してたのよ。それを聞いて、グアバをお茶にして売ってみたの。そうしたら、当たったの」

この経験は福留さんに有機農業とは別のもう一つの視点を与えてくれた。それが、徳之島で育まれてきた食文化から商品を作ることだった。
「例えば、このニンニクね。徳之島では、昔からニンニクは、実も茎も葉も食べるの。大晦日には必ず、ホルモンと大根の千切りとニンニクの葉を入れて食べる習慣がある。とにかく毎日、なにかしらニンニクを使った献立は並ぶ。それで、ニンニクの茎の漬物を開発した。
今、全国から注文をもらえている島みかんのジュースもそう。昔は、どこの家の庭にもこのみかんの木が植えてあった。子供の頃のおやつはこのみかんしかなかった。それがいつの間にか島から消えちゃった。でも、私は『このみかんは島の宝だ』と思って、売れなくてもずっと育ててジュースを作り続けた。売れるまで17年もかかったよ。
だから、六次産業化するのに、一次産業(=農作物)で良いものを作るのは当たり前。それに加えて、『ここでしか作れない』っていう地域性、オリジナルな商品を生み出すことが肝心なんだと思う」

目の前の足元にあるからこそ忘れそうになってしまうものの大切さを教えてくれたのは、奥田さんや消費者グループの人たちだったという。
「人に恵まれてるの。後から振り返ると、『ここだ』っていうタイミングで出会いがある」

実は、我々取材班もささやかな貢献をした。というのも、福留さんのニンニクの茎漬けはこれまで2ヶ月漬け込んで出荷している。それを、漬けて一週間ほどの茎を撮影用に見せてもらったのだが、それが瑞々しくてとても美味しかった。一口食べてすぐに福留さんは「これは美味しい!いい発見ね」といって、茎の浅漬けも新商品として発売することをその場で決めた。

大の料理好きで「有機農家にとって必要なのは美味しいものへの舌の感覚を研ぎ澄ますこと」という福留さんに、最後に有機農家という仕事はどういう仕事かと尋ねた。
「世の中には、中々、個人の力量や思い通りにならない仕事もあると思う。その点、有機農業はやったらやった分だけ、手を抜いたら手を抜いた分だけの成果が出る。正直な仕事。努力を裏切らない仕事だと思います。
だからね、もっともっと理想に生きていきたい。歳を重ねるほどに、理想に生きていきたいのよ」

photo/Kentaro Kumon text/Takashi Ogura

福留ケイ子(Keiko Fukudome)

1943年、鹿児島県伊仙町生まれ。83年より、有機栽培ジャガイモの販売をスタート。85年、グアバ、ビワやタンカンなどを植え、果樹農家の道へ。95年、毎日農業記録賞で優秀賞を受賞。98年、JA徳之島女性部部長就任。00年、徳之島初の女性農業委員に選出。01年、有機JAS認証取得。13年黄綬褒章授賞。

写真家の眼

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