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有機農家 山下一穂が遺したもの

畑も人も、すべてに愛を持てばいい

2017年11月26日、山下一穂さんが急逝された。

SAHRE THE LOVE for JAPANにおいてはもとより、
日本の有機農業界にとってもかけがえのない「先駆者」のあまりに早すぎる死を前にして
私たちに、できることはひとつしかない。
それは、山下一穂という稀有な農家が、私達に伝えてくれていたことを
もう一度整理し、ここで改めてみんなで分かち合えるようにすることだ。

なぜなら、山下一穂が遺してくれたものとは、
山下一穂が私たちに向けて蒔いてくれた未来への種なのだから。

chapter01

山下さんの過去の記事でも何度も触れているが、山下さんが農業を始めるようになったのは48歳からだ。それまでは、東京でドラマーとしていくつものバンドを率いてきたり、体調を崩して高知に帰省してからも塾講師をして暮らしていた。なぜ、この経歴を繰り返して説明するかというと、農家の家系に生まれたわけでもなく、若い時から農業に勤しんできたわけでもない。むしろ、農業とは無縁だった一人の男が、人生も半ばを過ぎて農業を、有機農業を生業にすることの困難さを想像して欲しいからだ。

山下さんを評する言葉に「彼は天才だから、ああいうことができる」「芸術家のような独特の感性がすごかった」という言葉をよく聞いた。だが、考えてみて欲しい。鍬一本持ったことすらない人間が、独特の感性があるだけで、見て美しく、食べて美味しい野菜を恒常的に生み出せるわけがない。

「彼はとんでもなく努力をしてた。新規就農の人たちで、上手くいかないって愚痴言う人たちは甘く見てるんだよ。そんな簡単じゃないんだ。天才ってのは努力してるんだから。その努力で身に付けた知識や技術が度量になって、その度量が自信を生むんだよ」と、語るのは、東京都・羽村市に本社を置く、食のセレクトショップとも呼ばれる「福島屋」会長である福島徹さんである。

また、現在、神奈川県・平塚市を拠点に湘南オーガニックタウン構想を農家として推進している内田達也さんも、山下さんと初めて出会った時のことを回想する。

「初めて一穂さんの圃場を訪れたのは、14年前です。当時は、有機といえば虫食い野菜が当たり前なんて言われていた時代でした。ところが、一穂さんの圃場では、見るもの全てが美しかった。あの出会いで僕の有機農業に対する概念は大きく変わったんです。有機や無農薬でも簡単に出来るんだって。

一穂さんは天才だから出来るんだって言う人は言い訳ですよ。一穂さんってめちゃくちゃ勉強してますから。ご自宅のびっしり農業関連の書籍が並んだ本棚を見て、この人は違うなと思いましたね」

就農当時の自分を振り返って山下さんはこう語っていた。
「こう見えても慎重なタイプやから、農家になるまでに4、5年は家庭菜園をやりながら勉強をしたね。家庭菜園を始めたら、とにかく楽しかった。何よりも自然の中にいることが気持ちよかった。
忘れもせんのは、塾講師と農家を2年間兼業してたんやけど、今日から農業一本となったあの時の幸福感はなかったね。『何のための農業か』って話をしたと思うけど、原点は自分のため。自分が楽しいってことにある。なんだかんだ言ったって、自分が幸せになりたいっていう幸福論なんだよ」

chapter02

家庭菜園を経て新規就農した山下さんだったが、畑で起こることは、すべてが未知の連続。また、条件のさほど良くない農地を開墾しなければならないといった、新規就農者にとっては誰もが避けて通れない壁に山下さんもぶつかった。
そんな時、山下さんは一人で悩みを抱え込まずに、知り合いの農業関係者にどんどん連絡を入れて、質問を繰り返したそうだ。そんな山下さんにとって、貴重な存在が農学博士であり、伝統農法文化研究所の代表も務める木嶋利男さんだった。木嶋さんは山下さんが「先生」と呼んだ数少ない人物の一人だ。

「まだ、水田だった土地を畑にしたばかりで、土がよくできていなかった頃だね。『湿害で何も育たない。夏でも根腐れ起こす』って相談がきた。その時に、私は『だったらオクラを植えなさい。硬盤が破けるから。その代わり1粒じゃダメ。4粒植えで』って教えたら、山下さんは10粒植えをしたんだよね。『それはやりすぎだ』って言ったんだけど、『こうすれば硬盤を砕いて、土中に立体構造が作れる』って言うんだよね。

いつもそうだったんだけど、まず、私の話をじっと聞いて、それを全部丸ごと吸収するんだ。その吸収力の凄さ。そして、私が教えた通りにやるんじゃなくて、自分のアイデアを盛り込むんだ。その応用力も独特だった。まさか、10粒植えしようなんて、普通だったら考えつかないようなことをやるんだよね」

山下さんの思いはたったひとつ。きれいで美味しい野菜を作ること。それだけだった。前出の福島さんも、「僕と一穂さんは有機だからとか、JAS認証だからとか、そういうのあんまり気にしてなかった。いい野菜かどうかってことだけ。いい野菜っていうのはバランスが取れてるってこと。それは自然の摂理でバランスが取れてるってこと」と語る。

小規模農家が生き残るにはどうすべきなのか。日々の畑での悪戦苦闘と同時に、どうやって収益を上げていけばいいのか。これもまた、新規就農者なら、誰もがぶち当たる壁である。そこで、山下さんが出した結論はシンプルなものだった。

「日本の農業はどんどん大規模化、あるいは集約化に進んでいる。でも、そうなると、クオリティに上限が出てくる。そこに我々のような小規模農家のチャンスがある。それがクオリティ勝負。

最高のマーケティングは勝手に売れるモノを作ればいいわけです。だったら作る、ハイクオリティな有機野菜を」
前出の木嶋さんが続ける。
「キク科がアブラナ科の害虫を忌避するから、アブラナ科と一緒にレタスを植えればいいよって教えると、彼はレタスではなく、サンチュを植えるんだよね。レタスより大きくなるから、より忌避効果も高くなるって。

秋口に霜が降りてくる直前に夏草を生やせば、霜が降りてくると夏草は枯れる。そうすれば、冬の草はその陰になって生えてこないんだって話すと、小松菜とか秋野菜の周りに草を一面生やして『お、枯れた!見てください。大成功でしょう!』って。とにかく知り合ってからというもの、特に種まき時期や収穫時期になると毎週のように相談の電話がかかってきたね」

そうして、ひたむきに畑と向き合い、常に仮説と検証を繰り返していくうちに、徐々に山下さんの存在は有機農業界で知られていくことになる。すると、全国から山下さんへ教えを乞いに来る人が集まるようになっていく。

chapter03

「一穂さんが就農して5年目辺りからですかね。全国から有機農業を教わりに彼の元へ人が集まるようになったんです。それを見ていて僕の方から『学校を作らんか』と申し入れたんです」(山下修さん)

ここで話されている学校というのが、私たちも取材させていただいた「有機のがっこう土佐自然塾」であり、設立に働きかけ奔走したのが、高知・土佐町でスーパーを営む山下修さんだった。山下修さん自身も、スーパーの経営の傍ら、有機で米の栽培をしていて、もっと有機農業を広めていきたいという思いを持ち続けていた。

「当時は、有機農業に特化した学校はひとつもありませんでした。2006年に設室して10年間で108名の卒業生を輩出しました。この卒業生たちが、今や全国各地で頑張って、次の世代を育て始めている。山下さんが遺したものといえば、彼らでしょうね。
それと、もうひとつ。塾の理念にもなった、『有機農業を軸とした田舎からの国造り』という彼の哲学じゃないかな。あれは誇れる。有機農業とは生き方の問題なんだということを伝えている」(山下修さん)

音楽を奏でるように、自由な発想と軽やかな気持ちで畑と向き合ってきた山下さんにとって、塾長という役割はかなりきつかったようだ。妻のみどりさんによれば、なかなか思いが伝わらない塾生にどう接していけばいいか、自宅ではしょっちゅう弱音を漏らしていたという。
だが、それでも山下さんは塾長を辞することはなかった。むしろ、塾を続けていくことで、より自分の使命を強く意識したような言葉が増えていったともいう。では、その使命とはどんなものだったのだろう。山下さんはこう語っていた。

「政治にも、行政にも、僕がやろうとしていることは期待できないから、仲間を増やしていく。この塾の本質は、いかにいい土を作って、自然の循環を再現させるかということ。野菜は、環境、土が作るものだから。人間が作るもんじゃない。この意識。ここに、僕にとっても塾生にとっても共通する“多様な生命、多様な価値観との共存”という理想がある。その上で、僕が掲げているのは、それを実践する有機農業を軸とした、“田舎からの国造り”ということなんです」

この言葉にはいくつもの視点から有機農業を捉えたレイヤーが層を成している。
Chapter1で山下さんが語っていた『何のための農業か』という言葉を思い返して欲しい。初めは、自分の思いから足を踏み入れた有機農業の世界だった。がむしゃらに努力して、何とか農家として自分を確立した時に山下さんが目にした光景は、数年間頑張っても志半ばで挫折していく新規就農者たちと、一方で自身の農業技術のみにこだわり、他者を攻撃するような有機農業界特有の閉ざされた世界だったのだろう。
そこで、浮かんだ疑問が「みんな、何のために有機農業をやりたいの?』という素朴な疑問だったのではないか。だからこそ、山下さん自身も、自分にとっての「何のための農業か」を問い続けてきたのだろう。その答えこそが、「田舎からの国造り」という言葉に集約されているのだ。

chapter04

「有機のがっこう土佐自然塾」と並行するように、山下さんが注力されていたのが、平成23年に設立されたNPO法人「有機農業参入促進協議会」の活動だ。設立以来、事務局長を務めてきた藤田正雄さんが言う。

「山下さんと活動を共にして教えてもらったことは、有機農業というのはあくまで手段なんです。有機農業自体を目標や目的にしてしまうと、対象が自分になってしまう。そうなると、有機農家同士で農法の違いといったことなどから対立が生まれてしまう。対立は何も生みません。そうではなく、田舎からの国造りという共通の目標に向かって、みんなで力を合わせて進んでいこうという姿勢でした」

もともと、「有機農業参入促進協議会」立ち上げを促したのは木嶋利男さんであり、立ち上がってからは、前出の内田達也さんとともに湘南オーガニックタウン構想を牽引する白土卓志さん、福島徹さんらに加えて、自然塾第3期卒業生である千葉康伸さんも理事としての参画を山下さんが要請した。

山下さん自身が「一番弟子」と呼び、あらゆる会合やカンファレンス等に同席させ、次代のリーダーとなるべく目をかけていた千葉さんは、現在は、神奈川県愛川町で研修生を受け入れながら自身の農園を経営し、一方で山下さんから引き継いだプロジェクトも含め、全国各地を飛び回っている。

「僕は、単に農家という仕事を教わっただけではないんです。農業って生きることにおいての原点だと思うんです。つまり、どんな仕事をしてる人とも繋がっていくんですよね。一穂さんは、『俺たちは1人じゃないんだよ。仲間を見つければいい。武器弾薬を持たず、人と繋がっていく。そして人に喜んでもらうにはどうすればいいか。愛だよな。とにかく愛だ。畑も人も、すべてに愛を持てばいい』と、よく言ってました。このことが、僕の柱であり中心となっています」(千葉康伸さん)

畑を愛し、酒を愛し、音楽を愛した山下さんは、何よりも仲間を愛していた。「山下農園」で、農場長を務め、現在は高知市内で独立している中西亮介さんが語ってくれたエピソードにも山下さんの愛が溢れていた。

「僕は一穂さんと出会うまでは、物事をいつもネガティブに捉えてばかりだったんです。ある時、2mくらいまで伸びた緑肥を刈り取るって時に、「亮介、最初に行け!」って言われて。顔なんかアブに刺されまくりましたけど、あの時に、まずは飛び込んで行動する。そこで、壁にぶち当たったら、そこでまた考えればいいと学びました」

中西さんは、自分の畑に通ってくる次世代の若者たちに山下さんから学んだことを伝えるべく「山下農園」にも一緒に出向いてもいる。
「山下農園で働いていた時、ある時、急に一穂さんが「亮介、駅伝やきね」って言ったんです。それって、一穂さんの有機農業への思いや技術とかそういったものを全部ひっくるめて、次の世代、さらに次の世代へとバトンを渡していくってことだったんだろうと思うんです。一穂さんは、茨の道を歩いて僕らに道を作ってくれました。だったら、その道を僕らが整理して、次から歩く人らが歩きやすいようにするのが僕らの使命なんだと思うんです」

取材の最後に、中西さんが一冊の本を見せてくれた。
「この本は、一穂さんの最初の本『超かんたん無農薬農業』(南の風社刊)なんですけど、独立する時にサインくださいって言ったら、一瞬考えて、ひとこと『突撃せよ!』って書いて渡してくれたんです」

山下一穂が遺してくれたもの。それは、有機農業という一本の道だった。その道には、あらゆる農業に関する知識や技術が、そして今の日本において有機農業を可能にするための戦略やネットワークが、何よりも、志を同じにする仲間たちがいる。

今、もし、新規就農で苦しんでいる人がいるならば、ぜひ、この道をともに歩んでもらいたい。

さあ、突撃せよ!

photo/Kentaro Kumon text/Takashi Ogura

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