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北村親二 茶の道60年これが北村の味

収穫の喜びを、ずっと家族で分かち合ってきた。

振り返ればおよそ60年もの月日が流れていた。
水も電気も通っていない土地を開墾し茶畑を作った。
たったひとりから始まったお茶作りの物語。いつしかそれは、家族みんなの物語になった。
やがて、家族で作るお茶は「北村もの」と呼ばれるようになった。
そして、2年前。農作物としては滅多に受賞することがない黄綬褒章(おうじゅほうしょう)を
天皇陛下より授与された。
今日も北村さんは、お茶を作っている。孫やひ孫に囲まれながら。

chapter01

勾配のきつい山道を登り切ると、緑の絨毯を一面に敷きつめたような茶畑の壮観な風景が広がった。
晴れた日には五島列島まで見渡せるという、長崎県北松浦郡・佐々町牟田原開拓地の山頂(標高360m)で、北村親二さんとその家族は暮らしている。あいにくの雨だったが、北村さんが自作の展望台まで連れて行ってくれた。そこには、60年前の入植時を思わせる巨石がいくつも鎮座していた。

当時、誰もがここへの入植を反対したというのが分かる。こんな巨石がゴロゴロしている土地から、誰が今の風景を思い描くことが出来ただろう。 「『こがんきれいになるとなら、売らなければ良かった』って土地を譲ってくれた方も言ってましたよ」と、北村さんは笑うが、入植した33戸の内、ほとんどの入植者が引き上げてしまったということからも、いかにこの土地が過酷な場所だったかが分かる。

北村さんは、昭和9年、長崎県平戸で農家の次男として生まれた。当時は、長男が家を継ぎ、次男以下は家を出るのが習わしだった。北村さんも中学を卒業し、県の茶業指導所で学んだ後、自分の土地を探し、ここへ辿り着いた。 「たまたま、じいちゃんの時代から地元の組合でお茶を作りよったんですね。そういうとことを見て育って来たけん、お茶をやろうと。平戸でやる予定だったんですけど、土地がなかったんです。それで、茶業指導所に通ってる時に、ここを教えてもらったんです。水もなし、電気もなし。何もない土地でした。それでも、私はとにかく嬉しかった。どんなに荒れてても。土地が欲しくて、お茶ば作りたくて、その為にここに来たとですから。絶対にここでお茶を作ってやろうと思いましたね」

六畳一間の掘建て小屋での暮らしが始まった。食べるものもろくになく、キノコや自然薯など野生のものを食べて飢えを凌いだ。とにかく貧しかった。それでも、ひとつだけ決めていたことがあった。自分の名前でお茶を売ることだ。産地の名前ではなく、下請けでもなく、北村という自分の名前で茶を作り、北村という自分の名前で販売までする。自園茶としてやっていこうと決めていた。
「ここら辺りでいえば嬉野茶とか八女茶とかああいう大きな生産地であれば、土地の名前で売り出しても良かったんですけど、ここは生産地ではなかったので、自分の名前で売っていこうと思ってました」

chapter02

入植から3年後、北村さんのお茶作りは、ひとりからふたりになった。鹿児島出身のサツ子さんと結婚した。
サツ子さんは、毎日、4キロ先の川まで水を汲みにいった。ふたりで、朝五時から、夜中の十二時までひたすら働いた。
「家内にも大分苦労させましたね。少し畑をしてサトイモだとか色んな野菜を植えて、それを市場に持って行ってね、お金に換えたりして、大変じゃったですよ」

結婚から2年後、長男の誠さんが誕生。その5年後に次男の正紀さんが生まれた。子供たちは成長するにつれて、自然と両親の仕事を手伝うようになった。サツ子さんは言う。
「私は、2人の子どもに励まされて、やってのけてきたって思います。その頃はまだ工場も小さかったけんですね、どうしても徹夜になりがちだったとですよ。子どもには『学校のあるけん休みなさい』って言っても寝切らずにですね。一生懸命手伝ってくれました。私が疲れたり、具合が悪かったりすると、『お母さん、僕たちが大きくなったら一生懸命手伝うけん、泣かんで頑張ってね』って」

現在、北村製茶の取締役を務める長男の誠さんは当時の様子をこう語る。
「よその農家は収量が上がると『豊作貧乏でつまらん』って言う。収穫が悪いと『今年は穫れんかった。つまらん』って言う。いつも『つまらん』って言ってる。ところが、ウチは穫れないときは『来年は穫れるぞ』、収量が上がると『たくさん売っていいぞ』って。貧乏してるくせに、いつか良くなるってことばかり言ってるわけですよ。そう言われ続けてると、お茶屋っていいのかなって思うようになるんです。『考えてみい。今は100gで100円にしかならんかもしれんけど、100gで1万円になるのもお茶だけだ。お茶は工芸作物なんだぞ』って。
だから、親が可哀想だから手伝おうという気持ちではないんです。いつか認められる日が来るだろうと思って、一緒に仕事をするようになったんです。とにかく両親ともに、弱音も愚痴も言わなかった」

家族をつないでいたのは手塩にかけて育てたお茶を収穫するときの喜びだったと、北村さんは言う。
「『これだけしか穫れなかった』というよりも『これだけでも穫れて良かったじゃなかね』って。感謝っていうのかな。とにかく収穫の喜びをね、家族で分かち合った。それをずっとやってきた」
そんな父を語る次男の正紀さんの言葉はもっとストレートだ。
「親父は神的な存在です。いくら怒られても、ひとりの人間としてすごいと思います。大体、二十歳かそこらで、こんな山の中に登ってこないですよ。鍬1本、腕ひとつでね」

北村さんのお茶作りは、ふたりから4人になろうとしていた。家族みんなでのお茶作りによって、ようやく生活は安定し始めていた。ところが、そんな矢先のことだ。兼ねてから付き合いのあった地元生協から新たな依頼が来た。

「無農薬でお茶を作ってくれないか」

応じた農家は一軒もいなかった。北村さんを除いて。

北村さんとサツ子さん

「『買ってくれるなら作る』と、一か八かでした」

chapter03

生協から無農薬でのお茶作りの依頼が来たのは、昭和44年のことだ。
「『有機農業』なんて誰も知らなかった時代でした。一か八かっていうことはありました。それでも茶を作ったら買ってもらわなきゃいけない。ということは、お客さんの要求に応えないとやっていけない。だから『買ってくれるなら作る』と。生活がかかっとるもんけんですね。高い志で『世のため、人のため』ってことじゃなくて、自分のためでした」

当然、有機農業にまつわる資材も世の中にはなかった。肥料ひとつにしても、自分で独自に作らなければならなかった。
「有機農業をするなら土を育てないといけない。それが第一ですね。それで、藁(わら)や茅(かや)を刈って堆肥を作って土の中に入れていきました。ただ、化学肥料と違って、効果が出るまでに長い時間がかかる」
有機農業を始めて、収量は以前の1/3まで激減。それが5年間も続いた。ようやく見えてきたはずの安定はまた遠ざかった。家族4人、自分たちの稼ぎだけでは生活出来ないほど困窮した。
「自分たちの食べるのを辛抱して、米ぬかとか油かすとかの有機肥料を買ってました。一時は地獄だった」(サツ子さん)
「街を歩いていると『農薬と肥料を買えない人』って指差して笑われました」(誠さん)
そんな時に力を貸してくれたのが、北村さんに有機栽培での茶作りを頼んだ生協や、消費者たちだった。

「米、味噌、醤油からね持って来て食べさせてもらったお客さんたちもおりますからね、くじけそうになっても、その人たちの顔が浮かんで、負けていられないという気持ちになりました。有機農業でお茶を作るという約束だけは絶対に守り続けようと思っとりました」

「当時の味は苦みと渋みだけで、旨味がなかった」(サツ子さん)というお茶でも、お客さんたちは買い続けてくれた。お客さんの気持ちに北村さんが応え、北村さんの行動にお客さんが応える。これが映画ならここまでで十分な物語だ。ところが、自然相手に人間の筋書きは通用しない。茶葉の病気と害虫が大量に発生した。
「お茶で一番怖いのは炭疽(たんそ)病です。葉が真っ赤にただれたようになって、一晩で畑全部にひろがってしまう。収穫間近に炭疽病にやられたこともありました」
何度も農薬をまいたらどんなに楽だろうと思った。
「それでも、有機農業っていうのはごまかしがきかない。それに、絶対に嘘は言われん」と自分を奮い立たせた。そして、普段の生活の知恵を畑で活用することを思いつく。
「畑に酢を撒いたときは他の生産者から『馬鹿じゃないか』と言われました。でも、夏の酢の物は身体にいいし、病気もしないから。他にも、昔の人が腹下しにドクダミを使ったことを思い出して煮出して使ったり、スギナなんかも、あれで鍋を磨くときれいになるとですよ。それを利用して、消毒用に使ったりね」

サツ子さん

chapter04

驚くのは、これだけの努力を日々続けてお茶作りしているのにも関わらず、北村さんのお茶の単価が有機栽培を始めた当時から変わっていないことだ。金額を上げようと思ったことは一度もないという。それは、一番苦労した頃からずっと付き合い続け、支え続けて来てくれたお客さんとの関係を大切にしているからだ。
「やっぱり、あの頃からのお客さんのためにはね。身内よりも大切にするというような感じですよ。お金よりも、いかに無農薬で有名な産地のお茶に追いつけるような味が出るかってことだけを一生懸命にやっとったから」

お茶の味を仕上げるのはサツ子さんの仕事だった。今でも、ほうじ茶はサツ子さんが仕上げている。
「どんなに辛いことがあっても、火入れするときは何も考えない。熱中するわけですよね。手を入れて茶を触って温度で覚えて、その時の香りで覚えて、そして何回も飲みしてですね」(サツ子さん)
当初はやぶきた一種類だった。やぶきたが美味しく作れるようになると、品種を増やし、3つの品種をブレンドするようになった。家族みんなで意見を出し合った。どこにでもあるような深蒸し茶ではなく、「これが北村の味だ」と分かるような特徴のある火入れをするようになった。すると、少しずつではあるが、有機栽培だからということだけでなく、味を理由に北村さんのお茶を求める人が増え始めた。誠さんは、東京の百貨店を回った時、こう言われたという。
「一般的なコクとか青臭さとは違う。太陽の光みたいな味がする」

いつの間にか北村さんのお茶は「北村もの」と呼ばれるようになった。
「火香(ひか)が強めの味というんですかね、私が子どもの頃に飲んでいたお茶の味に近いかもしれない。今のお茶のように、旨味だけを出すことはしません。自分たちで作った堆肥を土に入れて、じっくりじっくり土を育てて来ました。それがようやく実って来たんだと思います。じんわりとした、これがお茶の味だと思います」 有機農業を始めて、およそ45年もの長い時間がかかった。サツ子さんが、畑から茶葉を持って来てみせてくれた。
「葉っぱがこがんなったの。(慣行栽培と比較して)3倍近い大きさがあります。これを見て『やっと辿り着いたかな』と思ったとです」

主に長男の誠さんが営業を中心とした活動をし、正紀さんが畑を預かる。2人のお嫁さんと孫たちも一緒になって「北村もの」を作ってきた。農林水産大臣賞を始め、いくつもの栄誉ある賞も送られるようになった。そして、平成24年、農業では滅多に受賞出来ないといわれている黄綬褒章が北村さんに授与された。天皇、皇后両陛下から直接、お言葉をいただいた。
「最初に(受賞の)報せを聞いた時は、声が出ませんでした。呆気にとられました」と、北村さんは笑う。そして、「ずっと、家族が心の支えでした。家に帰れば家族がいる。それだけです」と静かに付け加えた。

帰り際、サツ子さんが言った言葉が忘れられない。
「これでよかとよ」

茶葉

photo/Kentaro Kumon text/Takashi Ogura

茶葉

北村親二(Kitamura Chikaji)

きたむらちかじ…1934年長崎県平戸生まれ。長崎県の「有機JAS認定」第一号取得者。
「農林水産大臣賞」や「日本農業パイオニア賞」など農業における名だたる賞を受賞。
そして、平成24年には、黄綬褒章までも授与された。

写真家の眼

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